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【伝説のアイドルグループ】キャンディーズがなぜ人気絶頂期に解散したのか?

【伝説のアイドルグループ】キャンディーズがなぜ人気絶頂期に解散したのか?

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

1970年代に日本中を一世風靡した伝説のアイドルグループ、キャンディーズ。我々のように少し年配の方はもちろんですが、今の若い世代の方でもキャンディーズという名前を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?

1973年9月1日にメジャーデビューし、1978年4月4日「後楽園球場」で「ファイナルカーニバル」を経て約4年7か月で解散。この解散の瞬間がキャンディーズの人気のピークだったのです。

ではなぜキャンディーズはここまでピークになった瞬間にピリオド(終止符)を打ったのでしょうか?そしてそこにはキャンディーズの3人だけにしか知りえない事実が隠されていたのでしょうか?

というわけで、今回はそんな『【伝説のアイドルグループ】キャンディーズがなぜ人気絶頂期に解散したのか?』という謎について解説させていただきたいと思います。

実は最初から3年で解散すると決めていた!

まずはキャンディーズのメンバーの紹介とかんたんな生い立ちを説明いたします。

  • 伊藤蘭さん(中央)(愛称:ラン)1955年1月13日
  • 藤村美樹さん(左)(愛称:ミキ)1956年1月15日
  • 田中好子さん(右)(愛称:スー)1956年4月8日 - 2011年4月21日

キャンディーズは3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身で、最終選抜にこの3人が選ばれました。この3人以外にも太田裕美さんやザ・ヴィーナスのボーカルであったコニーさんもスクールメイツの中にいました。

1972年4月「NHK歌謡グランドショー」のマスコットガールとして3人が選ばれ、プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいいい女の子たち」という意味でキャンディーズと命名されました。

1972年12月31日放送のNHK紅白歌合戦のオープニングでスクールメイツのダンスのセンターでキャンディーズの3人がダンスする姿が全国に披露されました。

キャンディーズはデビュー前の1973年4月7日から人気バラエティ番組のTBS「8時だョ!全員集合」のアシスタントとしてレギュラー出演が決定。

1973年9月1日には「あなたに夢中」でメジャーデビューを果たしました。デビュー当初は当時もっとも歌唱力が高いと言われていたスーちゃんがセンターでメインボーカルを務めることになりました。

しかしキャンディーズはデビューからしばらくはヒット曲に恵まれませんでした。そんなキャンディーズが本格的にブレイクしたのはデビューから1年半後の1975年2月21日にリリースした「年下の男の子」からです。

その当時のマネージャーの諸岡義明さんが、3人の中でランちゃんのファン層が他の2人とは異なることを発見し、センターのメインボーカルをスーちゃんからお姉さんタイプのランちゃんに変えて売り出しました。

それが見事に的中して「年下の男の子」がキャンディーズの初めてのヒット曲ということになりました。そしてこの年の12月31日にキャンディーズはNHK紅白歌合戦に「年下の男の子」で初出場を果たしました。

波に乗ってきたキャンディーズなのですが、そもそもキャンディーズの3人は、売れても売れなくてもデビューから3年で解散すると本人たちの間で決めていたのです。

3年で解散する理由は、メンバーで一番年下のスーちゃんが1976年に成人を迎えることで、「3年後に全員が大人になるから」と3人が話していました。

その証拠に渡辺プロダクションとの契約は1973年9月1日から1976年9月30日までの3年間だけとなっていました。

要するにキャンディーズは歌手(アイドル)をずっと続けて行こうとは最初から考えておらず、芸能活動は青春時代の思い出の1ページにしようと考えていたみたいでした。

特にランちゃんは中学生時代に演劇部に所属していたため、女優への道を目指していたそうです。

解散の契約の交渉が難航したため強行突破へ

1977年当時のキャンディーズの忙しさは相当なものだったと思います。ライブ活動が年間に80本もこなされ、レギュラーのテレビ番組が週に3本、テレビ朝日「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」(1976年10月11日~1978年3月27日)・NHK「レッツゴーヤング」・TBS「8時だョ!全員集合」この他にも単発での歌番組に出演、さらにはレギュラーのラジオ番組が週に2本、TBSラジオ「ヤングタウンTOKYO」・文化放送「GOGOキャンディーズ」に出演、さらにシングル4枚にアルバム8枚をレコーディング&発売をこなしていました。

1976年9月30日で解散しようと考えていた3人でしたが、同年3月1日にリリースをした曲「春一番」が大ヒットしたために、解散の話の折り合いが着かなくなってきました。

そしてキャンディーズと渡辺プロダクションとの契約は1年延長されて1977年9月30日までと変更されるのでした。

そしてキャンディーズの3人は1年延長された契約通りの1977年9月で解散したいと主張し続けたのですが、渡辺プロダクション側は1978年3月まで仕事が入っているため解散は認められないと、再び話の折り合いがつかず、ついに伝説のきっかけとなりました。

そして1977年7月17日「日比谷野外音楽堂」のライブの最後に3人は涙を流しながら「解散宣言」を強行突破しました。その時の言葉は次の通りです。

ランちゃん「私たち、皆さんに、謝らなければならない事があります。」

ミキちゃん「ごめんなさい。」

スーちゃん「許してください。」

ランちゃん「私たち、今度の9月で解散します。」

そしてランちゃんが言い放った「普通の女の子に戻りたい!」という言葉はとても有名になり、その当時の流行語にも選ばれました。

そしてキャンディーズの3人はデビュー当時と変わらずに普通の女の子の気持ちを解散まで持ち続けました。

解散宣言をした後にさらに人気急上昇

キャンディーズが解散を発表してから、さらにキャンディーズの人気が急上昇してきました。しかしキャンディーズは人気が出てしまったことで、たとえ「解散宣言」を強行突破したとしても、かんたんには解散することを周りの人々から許してもらえず、話はさらに複雑化していきます。

その後解散の時期はキャンディーズ側が折れ、会社側の意見通りに半年先に延長されることになってしまいました。

その後もキャンディーズの人気は更にヒートアップし、ラストシングルの「微笑みがえし」では最初で最後のオリコンチャート1位を獲得するまでに上り詰めてきました。

そして引退への花道へ

1978年4月4日後楽園球場に5万5千人の観客を集め「ファイナルカーニバル」の口火が切って落とされました。

球場に入りきれなかった人々を合わせると約8万人もの人が後楽園球場の内外にいたと推定されています。推定約8万人の大合唱は当時、機動隊も警戒する程異様な光景だったそうです。

ライブは時とともに過ぎ去りラストシーンで3人の本音の挨拶がありました。キャンディーズのライブからその言葉を引用いたします。

www.youtube.com

ランちゃん

私たちは、よく、大人のひとに言われました。
「君たちはなんてバカなんだ。こんないいときに、バカ騒ぎをして、そんなにまでして、キャンディーズを辞めることはないじゃないか。」
でも、私達はバカじゃありません。そうじゃないから、解散を決めました。
私達は良く知っています。キャンディーズは素晴らしいです!
キャンディーズは最高だっていうこと、私達、一番よく知っているつもりです。
私達3人は、全てをキャンディーズにかけてきました。MMPのみなさん、スタッフのみなさん、そして、全国のたくさんのファンのみなさんが、私達を最高のものに作り上げてくださったんです。だから、だからこそ、私達は、最高のまま、解散したいと思います。

ミキちゃん

確かに、見る人から見れば、身勝手な、少女趣味的な発想だと思います。でも、あたし達は、少女でも、子供でも、幼稚でも構いません。
子供のときから始めたキャンディーズです。
最初の精神を、ずっと、貫き通そうと決めていました。変な大人になるより、変な大人になるより、純粋な子供の気持ちで、純粋に終わりたかった。そしてあたし達は、そうやって努力もしてきました。
今、それが、すべて、すべて、出来た様に思います。
力強い皆さんの、沢山の支援があったから、キャンディーズは、あたし達のキャンディーズは、純粋なまま、今、この瞬間に終わります。
あたし達は、キャンディーズの一員であったことに対して、すごく、誇りを持っています。ほんとうに、ありがとうございました。

スーちゃん

最後に、私達の、夢で、夢であった、この場所、後楽園球場で、ステージ、最後のステージを、みなさんと一緒に、このステージで、精一杯、歌ったこと、ほんとうに、嬉しく思います。
そして、このフィナーレを、すばらしいものにしてくださった、主催者のみなさん、後援、協賛のみなさん、後楽園のみなさん、大勢の関係者のみなさん、そして何よりも、渡辺プロダクションのみなさん、ほんとうに、長い間、ありがとうございました。

ランちゃん

私達の、この、最後のステージの、最後の曲は、やはりこの歌を歌いたいと思います。聞いてください。「つばさ」を歌います。

www.youtube.com

この記事では『【伝説のアイドルグループ】キャンディーズがなぜ人気絶頂期に解散したのか?』について解説させていただきました。

ありがとう わたしたちは しあわせでした」これが3人の正直な気持ちだったのではないでしょうか。

キャンディーズのシングルレコード

発売日 タイトル
1973/9/1 あなたに夢中
1974/1/21 そよ風のくちづけ
1974/4/21 危い土曜日
1974/9/21 なみだの季節
1975/2/21 年下の男の子
1975/6/1 内気なあいつ
1975/9/1 その気にさせないで
1975/12/5 ハートのエースが出てこない
1976/3/1 春一番
1976/5/31 夏が来た!
1976/9/1 ハート泥棒
1976/11/21 哀愁のシンフォニー
1977/3/1 やさしい悪魔
1977/6/21 暑中お見舞い申し上げます
1977/9/21 アン・ドゥ・トㇿワ
1977/12/5 わな
1978/2/25 微笑がえし
1978/11/21 つばさ

最後までお読みいただきありがとうございました。

感謝いたします。

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雑記ブログ(2021年9月9日17:00より)

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懐かしいバンド活動

今回は私がドラムで参加していたバンドで、御子様倶楽部というバンドで活動していた頃の話を書きたいと思います。

こんばんは!

たかぼんブログドットコムの

たかぼんです。

はてなブログを開設してから

194日・177記事目・119日連続の

投稿になります。

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ひろみさんバンド時代

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私はLEOのベースのふとしとギターのしょうのと3人で、よくアルフィーの曲を3重奏で歌っていました。

3重奏で歌うと結構ハーモニーが綺麗で自分たちって歌がうまいのかなとよく勘違いをしてしまいました(笑)

そしてその3人はあるサークルの仲間たちと野外でライブをしました。

その3人がひろみさんバンドと言います。

私としょうのがアコースティックギターでふとしがベースでした。

野外ライブではアルフィーの次の曲を披露しました。

  1. Cach the wind
  2. Feeling love
  3. 水曜日の朝午前3時
  4. 踊り子
  5. 晩歌

なかなか気持ちよく歌えたので楽しいひと時でした。

御子様倶楽部結成

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それからのちに当時ふとしの彼女であったまどかをボーカルにして、バンドを組もうかということになりました。

私はLEOの時代からよくドラムをたたいていたのでドラムを担当することになりました。

リードギターはしょうのでベースはふとしでボーカルがまどかです。

シンセサイザーにきょうこちゃんが加入して、ピアノにじゅんこちゃんが加入して御子様倶楽部の原型ができあがりました。

練習していた曲は

  • 中原めいこ の エモーション
  • 杏里 の キャッツアイ
  • Madonna の Like a Virgin
  • REBECCA の フレンズ
  • MIE の Never(英語Ver)
  • アンルイス の 六本木心中
  • REBECCA の Never too late

といったところです。

こんなにたくさんの曲をドラムでたたけたのかな?と自分でも不思議です。

今やったら絶対に無理ですwww

御子様倶楽部ファーストライブ開催

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まとかが高校を卒業して就職してしまうと、バンド活動ができなくなるということで、最初で最後のライブとなってしまいました。

ライブの内容は、当時大ヒットしたキャッツアイやNever・六本木心中・Like a Virgin・フレンズなどを演奏したので、ウケはそこそこよかったように感じます。

私はドラムを必死になってたたいていました。

まどかは絶叫して歌っていました。

今あんな声で歌ったら血管が切れてしまうぐらいの声でした。

特に盛り上がった曲がアンルイスの六本木心中でした。←個人的に

終盤のMCの時に、ふとしが代弁してまどかの高校卒業と就職のことをみんなに伝えていました。

「えーこの子(まどか)がこの春に高校を卒業して就職してしまうので、このライブが最初で最後のライブになります。今日は最後まで応援ありがとう」のようなことを言っていた記憶があります。記憶はあいまいですが。

応援に来てくれた私の予備校時代の友達のふじおかも喜んでくれました。

今考えても「若い時ってええもんやなぁ〜」と感じます。

打ち上げ

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ライブが終わったらバンドのメンバーや仲間たちといつものごとく居酒屋で打ち上げをしました。

実はこれが一番の楽しみやったりして、ある意味。

ここからが私の本番と言っても過言ではありません。

当時の私はビール専門だったので生ビールのおかわりをしまくっていましたwww

どこへ飲みに行っても生ヒールはつきものでした。

バンドでいい汗をかいた後の生ビールは格別です。

月日は経ちましたが今日も仕事が終わったら生ビールで乾杯!

最後までお読みいただきありがとうございました。

感謝いたします。

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1982年8月15日の【CHAGE & ASKA】のライブ

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こんにちは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

はてなブログを開設してから61日、49記事目になります。

 

 

1982年8月15日のライブ

あなたは覚えてますか?1982年8月15日大阪城西の丸庭園にて「The 夏祭り'82 チャゲ&飛鳥 大阪城ライブ」が開催されたのを。

真夏の熱い夜に見事なライブを我々に繰り広げてくれました。

確かこの日は高校時代の親友の内山と2人で見に行った記憶があります。

2人とも筆記用具を持っていて1曲目からチャゲアスが何を歌ったかを記入していたはずです。

それは一瞬一瞬を忘れたくなかったからです。

まずはオープニングは何から歌うのか?少し緊張しながら見守っていました。

 

オープニング

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オープニングの後、ファーストアルバムに収録されている「夏は過ぎて」が流れ出しました。

気がついたら大歓声と共に我々の興奮度も高まりリズムに合わせてジャンピングをしながら大声で歌っていました。

西の丸庭園の会場内の観客全員がそんなノリだったです。

 

収録曲

DVD(昔はVHSでしたが・・・。)の収録曲です。

  1. オープニング
  2. 夏は過ぎて
  3. 御意見無用
  4. 長い雨のあと
  5. 万里の河
  6. いろはにほへと
  7. カーニバル
  8. 花暦
  9. 男と女
  10. 21世紀
  11. 魅惑
  12. 誓い
  13. 南十字星
  14. 悲炎
  15. 熱い想い
  16. 終章(エピローグ)
  17. ひとり咲き
  18. 歌いつづける

 

盛り上がった!

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今でもあの時の興奮が懐かしいですね。

一番力が入ったのは11曲目の翼から17曲目の翼までのノンストップメドレーです。

激しい曲のメドレーを大声で歌って最高の気分でした。

このビデオにだけ収録されている「歌いつづける」は基調な音源だと思います。

やっぱりチャゲアスは最高!

 

長渕剛の大阪ライブ初参戦(1980年)はこちらからどうぞ。

www.takabonblog.com

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長渕剛の大阪ライブ初参戦(1980年)

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こんにちは!takabonblog.comのたかぼんです。

 

はてなブログを開設してから20日連続の投稿です。

 

早いものでもう20が経過したんですね。

 

毎日ブログを投稿するのも、少しは習慣になってきたような、なってないような・・・。

 

たかぼんが初めてギターを弾きだしたのは、高校1年になってからてす。

 

中学生の時に音楽の授業で習った事はありましたが、授業中に弾いてただけで、ギターを購入してまは弾いてませんでした。

 

でも高校生になっになってを弾き始めて、あっという間にギターのとりこになってしまいました。

 

当初よく歌っていた曲は、アリスの曲をよく弾き語りしていました。

 

アリスとは、谷村新司さん、堀内孝雄さん、矢沢透さんの3人のバントです

 

「今はもう誰も」が最初に弾きだした曲です。

 

ギターを弾きながら歌うというのは、気分が晴れていいもんです。

 

話は変わりますが、あなたもよくご存知の長渕剛さん、乾杯や勇次、とんぼ、しゃぼん玉、RUNなど数々の大ヒットを飛ばしてますよね。

 

1980年6月5日、ファンからの熱い要望により、アルバム「逆流」に収録されていた「順子」がシングルカットされ、リリースされました。

 

その「順子」がオリコンで見事に1位になりました。

 

ちょうどその日は、たかぼんが初めて剛のライブを見に行った日です。

 

高校からの帰りで、チケットも購入していなかったのですが、大阪フェスティバルホールへ直行。

 

入れるのかどうかも解らなかったけど、とにかく来てしまいました。

 

まだ順子がリリースされた当日だつたから、剛の知名度がまだそれほどでもなかったのが運の付き。

 

当日券もまだ販売されてました。

 

取り合えす、2階の立ち見席だけ残ってたようなのでゲット。

 

しょっぱなはやはり巡恋歌でした。

 

ギター1本での正にワンマンショー。

 

感動です!

 

ライブは着々と進行し、いよいよアンコールです。

 

アンコールの時は2階席から1階席の前方の方まで走って行きました。

 

そしてアンコールの曲がすべて終了しても、誰も帰りません。

 

ステージ上の機材がすべて撤去されても、剛のファンは帰りません。

 

延々と剛コールが続きます。

 

しびれを切らした長渕剛さんが、観客前に現れました。

 

「お前ら俺を殺す気かって!」と笑いを取り、最後は一本締めでファンも納得して帰りました。

 

あの当時から剛のファンは、猛烈に熱狂的でした。

 

すごいです。

 

素晴らしいです。

 

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レベッカのライブは最高!

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こんにちは!takabonblog.comのたかぼんです。

 

はてなブログを開設してから19日連続の投稿です。

 

昨日は中原めいこの事について書きましたが、今日はレベッカの事について書いていきたいと思います。

 

 

たかぼんがレベッカを知ったのは、昔たかぼんが組んでいた、「お子様倶楽部」って言うバンドのメンバーの、「ふとし」と「まどか」が教えてくれました。

 

当時はまだ、フレンズが大ヒットする前だったので、レベッカのイメージは、マイナーな印象がありました。

 

レベッカと言うと、ボーカルのノッコが張りのある声で、絶叫して歌うパワフルロックバンドです。

 

 

ウェラム・ボートクラブでメジャーデビュー

 

1984年4月21日に、ウェラム・ボートクラブでメジャーデビューする。

 

この時代は、たかぼんもレベッカの存在を知りませんでした。

 

3曲目のラブイズCashの時から、よく聴くようになりました。

 

 

4thシングル フレンズ オリコン3位

 

1985年10月21日に、4枚目のシングルの「フレンズ」がリリースされ、オリコンチャート3位の大ヒットとなりました。

 

今回も、中原めいこが大ヒットした時と同じく、信じられないような、うれしいような感じでした。

 

それ以来、各TV局の歌番組に引っ張りだこでした。

 

最近になって知った事ですが、ノッコの年齢は、たかぼんと同い年だったんです。

 

当時は年齢なんか意識もせんと聴きまくってたからねぇ〜。

 

たかぼんは1963年5月30日生まれで、ノッコは11月4日生まれです。

 

お互いに56歳です(笑)

 

フレンズの時はお互いに22歳やったのに、年を取るのは早いなぁ〜。

 

ノッコもたかぼんも年には勝てません。

 

 

4thアルバム Maybe Tomorrow オリコン1位

 

このアルバム、レベッカの中でも、たかぼんがイチオシのアルバムです。

 

1曲目のHot Spice からなかなかノリがよくて、体でついリズムをとってしまう感じです。

 

歌詞が少ない曲なんですが、いろんな楽器の音色が楽しめる、ライブのオープニング用みたいな感じです。

 

そして、2曲目が PRIVATE HEROINE と言う曲で、ライブの最後の方に歌う超ノリノリの曲です。

 

ライブでは、ノッコが踊り狂い、ステージ上で倒れ込みながら叫んだり、とかなり体力を振り絞って歌っていました。

 

それはそれは感動しました!

 

あの小さな体で、どこからあのパワフルな声が出るのだろうと、いつも思っていました。

 

たかぼんは当時よくスキーに行くことが多かったのてすが、車の中でよくレベッカを聴いていました。

 

お子様倶楽部の「まどか」が大のレベッカファンだったので、感化されてしまいました。

 

全部いい曲ばかりなのですが、個人的に1番好きな曲は、RASPBERRY DREAM です。

 

最近になってレベッカが再結成して、ライブなどの活のをしてるようです。

 

今のお若い方達は、レベッカの存在を知らない人が多いのですかねぇ?

 

知る人ぞ知るレベッカです。

 

 今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

 

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ミステリアス、中原めいこの現在は・・・?

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今回は知る人ぞ知るあの「中原めいこ」の現在はどうなったのか?1988年ニューヨークに渡って突然活動休止に!その後の消息が不明なままで、彼女はいったいどこで何をされているのでしょうか?

なんとネット界隈のうわさでは「中原めいこ死去説」までの噂が広がっています。しかし実際にはそんなニュースなど見たこともありません。

もし死去説が正しければあれだけ有名な人なのですから当然のごとくニュースなどで報道されているはずです。なので死去説に関してはほぼないと断言してもいいと筆者は考えています。

それであれば彼女はいったいどこへ行ってしまったのでしょう?まぁ~その話はこっちに置いといて、今回はとにかく少し昔の中原めいこさんのことを思い出して、楽しかった昔のことを振り返ってみましょう。

こんばんは!takabonblog.comのたかぼんです。

筆者がまだ17~24歳(1980~1987年)当時は、音楽がとても大好きで、チャゲアスや長渕剛・中原めいこ・レベッカ・バービーボーイズなどのライブにはよく行っていました。

そんな中で今回は、筆者が組んでいたアマチュアバンドの「LEO」や、その友達のバンドの「マリンウインド」のメンバーも大好きだった、中原めいこさんに焦点を当てて解説させていただきたいと思います。

中原めいこさんの曲を筆者がよく聴くようになったのは、筆者の友達バンドのマリンウインドのボーカルのなおこ姉ちゃんから教えてもらってからです。

まだヒット曲らしいヒット曲がない時期で、もちろん例のあのヒット曲もまだリリースされる前のことです。

1980年代に日本中を一世風靡した彼女。

1988年にニューヨークへ渡って活動休止・・・。

ミステリアスな疑問を残したまま、今はどこで何をしているのでしょうか?

そんな中原めいこさんの懐かしいヒットナンバーなどを、筆者が紹介していきたいと思います。

多分ですが、筆者に近い年代の人であれば、あの大ヒット曲ぐらいはご存じかなと思っています。

なぜかこんな話題になると、どんどん文字を書くのが早い自分がいるのに気が付きました(笑)

やっぱり自分の好きなジャンルは、書いていても楽しいですね。

それでははりっきってどうぞ!

デビュー曲「今夜だけDANCE・DANCE・DANCE」

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1982年4月21日にリリースされた「今夜だけDANCE・DANCE・DANCE」、伴奏のしょっぱなのラテンパーカッションのサウンドがとてもいいです。

聴いた瞬間にテンションが100倍ぐらいにあがります。

この当時の筆者はと言えば、無事高校は卒業したものの、大学受験に落ちてしまい、浪人時代を迎えていました。

天王寺のECC予備校に通っていましたが、まったく勉強する意思もなかった、どうしようもないぐらいのバカでした!

筆者の暗い過去の話はさておき、この「今夜だけDANCE・DANCE・DANCE」、久しぶりに聴いてみたくなりました。

筆者がまだ18歳と11か月(ほぼ19歳)と言う若かりし時代です。

この曲はこの後に紹介する、ファーストアルバム「Coconut House」の1曲目に収録されています。

ラテンパーカッションにピアノの音色がピタっ!と合ってますよね。

ブログを書いてる間に、YouTubeで「今夜だけDANCE・DANCE・DANCE」を聴いてしまいました( ´∀` )すみませんm(_ _"m)

当時の人たちはトロピカルサウンドって言ってました。

海辺へカップルで行くときなんかに、車の中でこの曲が鳴ると、思わずアクセルを踏み込んでしまいそうに・・・なったらあかんです(;´∀`)

ファーストアルバム「COCONUTS HOUSE」

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このアルバムは、同年度の7月1日にリリースされたものです。

懐かしい曲・曲・曲・・・です。

以下が「COCONUTS HOUSE」の収録曲です。

  1. 今夜だけDance・Dance・Dance
  2. Sunset Freeway
  3. バカンス
  4. 涙のスロー・ダンス
  5. 恋はサンバにのせて…
  6. タイムリミット
  7. GEMINI
  8. ほんのちょっぴり Old man
  9. City Night
  10. Come back to me

全部いい曲なんですが、個人的に好きな曲は、「Sunset Freeway」や「バカンス」あたりが特にいいかなと思います。

当時はLPレコードと言って、ジャケットがすごく大きかったです。

中のレコードにも、キズをつけないように慎重にあつかう貴重なものでしたね。

筆者もバイトで貯めたお金でよく買いましたよ!

アルバムは6枚ぐらい持っていましたが、一番よかったと思ったアルバムは、セカンドアルバムの「2時までのシンデレラ」でした。

そして中原めいこデビューから2年後、あの名曲が世の中に広がって、一世を風靡しました。

さてその名曲とは・・・。

大ヒット曲「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」

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遂にやってきました!中原めいこ歴代№1大ヒット曲!「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」です。

栗原景子さんが出てた、カネボウ化粧品レディ80ファンデーションの、CM曲にこの曲が抜擢されて、一躍大ヒットしました。

この曲をリリースして以来、テレビの歌番組で引っ張りダコになり、一躍有名人になったと思います。

筆者はこの曲が大ヒットする前の段階で、ライブを見に行ったりしてたので、ヒットした時はちょっと信じられないようなうれしい気持ちになりました。

ほんまにあっちこっちの歌番組で出演してました、

♪うれし恥ずかし真夏のう~わ~さ~~♪

レコード売り上げが27万枚、ザ・ベストテンでの最高順位が6位まで上昇しました。

ザ・ベストテンと言えば、当時の国民的な歌番組だったと言えますよね。

まあその後もヒットを連発していた中原めいこさんですが、ある日・・・。

突然の活動休止・・・その訳は?

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びっくりしましたよ!はっきり言って!

活動を休止してニューヨークに渡ったらしいです。

ニューヨークって遠いすぎるやないですか!

もうテレビでも見られへんのかいなと思うと寂しなりますわ!

中原めいこさんの、ネット上の情報はほんまに皆無なんでしょうか?

2021年5月17日現在、世界はみんなコロナ禍の中でいったい彼女はどこで何をしてるんでしょうか?

ネット上の記事では、「中原めいこ死去!」説まで、うわさされているのをよく見かけます。

しかし世の中にはたくさんの中原めいこファンがいます。

彼女が元気に生活をしてるという情報を知りたいのは、筆者だけではなく、たくさんファンたちが待ち望んでることです。

ご安心ください!筆者は中原めいこ死去はありえないと断言します。

物理的に考えてあれだけ有名な人がお亡くなりになられたら必ずメディアに報道されることは間違いないからです。

中原めいこさんのメロディーラインと言えば、他に類を見ない超越した才能が秘められているように感じさせます。実に素晴らしい!もうかなりの年齢に達しているのですが、再びあの歌声を聴かせてほしいものです。

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1983年バンド活動のきっかけ~LEO結成!

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こんにちは!takabonblog.comのたかぼんです。

これからお話することは1983年に筆者が加入していたLEOというバンドが結成されるまでのことを書かせていただきます。

あるライブがLEO結成のきっかけに

1983年の春に筆者が予備校に通っていた時の友達の「I 」に、「俺の知り合いがライブするから見に来てくれへんか?」と言われたのでOKを出して見に行く事になりました。

ライブの当日、筆者の高校時代の友達の「MU」と「SK」を誘って、ライブを見に行きました。

晴れ渡った野外ステージの上に、「春らんまんコンサート」の横断幕が張られていました。

「I」の知り合いは三人組の女の子のバンドで「ひょっこり」と言うバンド名です。

何の歌を披露してくれるのかと思って聴いていたら、なんと筆者が大好きなチャゲアスの歌を演奏してくれました。

当日ライブを見に行った三人(MU・SK・筆者)ともチャゲアスファンだったので、ステージの進行状況をじっくりと拝見させていただきました。

メンバー構成は、ボーカル&ギターが二人とキーボードが一人でした。

ASKA担当のボーカルの声が、とても澄んだ声でパワフルでとても良かったです。

しかし筆者が高校時代にチャゲアスのコピーを、フルバンドで演奏した経験があったので、筆者やったらフルバンドにして、もっと迫力のあるライブができるのではないかと、ふとそういう思いが心をよぎりました。

バンド活動をやりたい!ライブをやりたい!筆者の心がそう叫んでいました。

 

遂にバンド結成への行動開始

さっそく我々三人はバンドメンバーの公募をしました。

CHAGE担当がハゲ&レスカのハゲを担当してたということで、筆者がすることに、そして問題はASKA担当です。

ハゲ&レスカ時代のASKA役を担当したのは「MU」です。

しかし「MU」がそのままASKA担当になると、「SK」のできる担当がなくなるため、ASKA担当は「SK」がすることになりました。

そしてピアノの独学で大阪芸大に入った「MU」が、ピアノ&キーボード担当をすることに、ちょっとホッとしました。

そして「SK」の大学の友達に「AOくん」と言う知り合いがいて、リードギターができるらしいので、「AOくん」に連絡をして快諾。

残りはベースとドラムだけ、最も大切な部分です。

メンバー公募で連絡をしてくれたのは、ベースができる「FN」という高校1年生の男の子でした。

そして「「FN」の知り合いがドラムの「OK」を紹介してくれてメンバーが揃いました。

  • リードギター 「AOくん」
  • ベース 「FN」
  • キーボード 「MU」
  • ドラム 「OK」
  • ボーカル&ギター 「SK」と筆者です。

LEOが結成!

 

ライブ開催への道

1983年6月26日に初めてスタジオで練習開始。

その数日後、ライブを行うために、「ハート&ハート」というサークルに入る。

初練習から2か月後の8月26日に初ライブと、とんとん拍子でライブをすることになりました。

参加バンドは10組いました。

その中でLEOが演奏するのは確か6番目だったと思います。

演奏した曲はすべてチャゲアスの曲で、下記のとおりです。

 

  1. 放浪人(TABIBITO)
  2. マリオネット
  3. 魅惑
  4. 悲炎
  5. 幻夜「この曲はアンコール」
  6. 終章(エピローグ)「この曲は予定外の曲でした(笑)」


ライブで歌うのは、それはそれは最高の気分でした。

そして我々LEOは、観客のアンケート投票で10バンド中1位を獲得!

やった~!うれしい~!最高~!と言う気分でした。

打ち上げで表彰されて、またうれしい気分でした。

皆さんありがと~~~~!

LEOはその後も活動を続けました。

 

いや~しかしほんまに懐かしい思い出です。
ぜひまたこんなことができたらな~と思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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