takabonblog.com

毎晩お家で楽しくお酒を飲むのが大好きで、最近は歴史に凝っている筆者が書いている雑記ブログです。

日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!

ダイアモンド富士

あなたは古代の富士山の北麓で栄えた富士高天原王朝(ふじたかまがはらおうちょう)のことをご存じでしょうか?富士王朝とは大和王権の祖と言われています。要するに今の天皇陛下の祖なのです。

こんにちは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は7月24日以来45日ぶりの投稿で『日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!』について解説させていただきたいと思います。この記事で通算600記事目の節目になりますパチパチパチ!

あくまでも筆者の独断と偏見で書いているので、一説のエンターテイメントとして楽しんでいただけたらうれしいです。

大和王権の祖が富士王朝であった!

王朝には祭祀王(さいしおう)と統治王(とうちおう)がセットになっていて、統治王よりも祭祀王の方が身分が上でした。そして祭祀王には女性がなることが多かったのでこの時代の我が国は、女神信仰の国だったと言えます。

このことは現在では、時の男性の権力者の手によって、明らかに隠されている歴史になっています。

富士王朝は本州、四国、九州のほとんどの国を統治していました。そして各国にタケルという身分の役職を置いていました。現在で言う都道府県知事みたいなものですかね。

富士山というと日本一美しい、しかも日本最大の山である!ということは非常に有名なのですが、なんと古事記や日本書紀といった記紀には日本一目立つ富士山のことを一言も触れていません。

あんなに目立っている山なのに富士山が一度も出てこないのは不自然ではないでしょうか?

この富士山の北麓に都があった当時から、なぜかその都のことを「やまと」と言われていたそうです。

まだ漢字が日本に伝わっていない時代なので、もし漢字に当てはめるのならば、山の都なので「山都」がいいのではないかと思います。

記紀によると、筑紫の日向国(ひむかのくに・現在の宮崎県)の高千穂に高天原(たかまがはら)があり、そこにニニギ命(ににぎのみこと)が天孫降臨したとあります。

しかし富士王朝のことを記した古代の神代文字(かみよもじ)で記された古文書(こもんじょ)によると、高天原の場所は富士山周辺だったと記されていました。

この古文書は、初代神武天皇以前の超古代の王朝の様子を記した富士王朝の歴史が記された古文書です。

後に秦の始皇帝の使いで、不老不死の薬を探しに来日した徐福(じょふく)が、富士山(または不二山、または不死山)を見つけました。その時の富士王朝はアマテラス系の子孫が九州に遷都していたため、ツクヨミ系の子孫が富士王朝を引き継いでいました。

そして徐福のもとに富士王朝の神官(しんかん)たちがやってきて、古来から富士に伝わる歴史を徐福に伝え始めました。この当時に富士王朝で古代の神代文字(漢字伝来前の文字)を扱うことができたのは36の神官の家だけでした。

彼らは富士王朝の首都、家基都(かきつ)に住んでいて、神社に勤務しながら国内の主な出来事を、特殊な文字で記録してまとめていたとされています。

この神官たちはこの記録を徐福に伝えたのです。そしてこの話を聞いた徐福もとても感動して、「これはすごい話だ!絶対に後世に残すべきだ!」と言って、当時富士王朝に住んでいた36の神官の家のすべての記録をまとめることを提案しました。

そして富士王朝の神官たちも、徐福の提案に賛成し、徐福に漢字で文書を記してもらうことになりました。

徐福は神官たちが言ったことをすべて漢字で記しました。こうしてできたのが宮下文書だと言われています。

つまり宮下文書とは、富士王朝に残っていた複数の書物を、徐福が編纂してまとめたということです。そして徐福の子孫が後を引き継いで完成させていきました。

こうやってできた宮下文書は不二阿祖山太神宮(ふじあそやまだいじんぐう)の神官によって守られ続けてきました。

そしてそれを当時の神官であった宮下氏の子孫が家宝として引き継いでいたものが、現在の宮下文書と言われています。

宮下氏の子孫では、この家宝だけは何があっても絶対に守るように先祖代々から言い伝えられたものを守っていたのですが、中身を見たら目がつぶれると言い伝えられていたため、何が入っているのかは誰も知りませんでした。

ちなみに江戸時代のとある日に、宮下家が火事の災害に見舞われた事件があったのですが、中にいったい何が入れられているのかは誰もわからないのですが、その家宝だけは大事に守り切りました。

明治時代になり目がつぶれるという迷信はないと信じられるようになり、中身を確認したところ、徐福が漢字で記された古代の文書が入っていました。宮下氏の子孫が受け継いできた文書だったので、宮下文書と言われるようになりました。

そして宮下文書に記されている富士王朝の当時の王様は、現在の山梨県富士吉田市にある日本最古の神社と言われている不二阿祖山太神宮で大王(おおきみ)に即位していたのです。

記紀によると西日本からだんだんと国が広がってきたように記されていますが、この富士王朝の時代は西日本より東日本の方が圧倒的に人口が多かったと言います。

越の国は、越前(福井県あたり)・越中(富山県あたり)・越後(新潟県あたり)から成り立ち、東北地方と同じズーズー弁の方が多いのですが、なんと面白いことに島根県東部から鳥取県西部にあったその当時の出雲王国もズーズー弁だったのです。

つまり出雲族とは島根県東部や鳥取県西部あたりだけではなく、青森県から島根県までの日本海側全域に存在していたようです。

なぜ富士王朝はウガヤフキアエズ王朝に変わったのか?

富士王朝は約9,000年前から存在していたと言われています。しかし今から約3,000年前頃のニニギの時代に、大陸から渡来人の大群が九州や四国に攻めてきました。

ニニギと臣民が一丸となって辛うじて大陸軍に勝つことができたのですが、コトシロヌシ親族は壊滅状態になり、オオヤマツミとカモサワヒメ夫妻は死亡し、ニニギは后コノハナサクヤヒメを自殺させて自分も衰弱死してしまいました。責任を感じたコトシロヌシとタカテルヒメ夫妻がその後を追いかけて自害してしまいます。

この事件によって富士高天原に都を置いていても、九州や四国を守ることができないので、富士高天原は天都として、九州の日向(ひむか)の高千穂を神都として、都を移動したのです。

その後の富士高天原にある富士王朝はツクヨミ命の系統であるオオヤマツミ命の子孫が継承します。九州の日向に移動してきたニニギの息子のホオリ命(別名:山幸彦)は、トヨタマヒメ命と結婚し、現在の大分県大分市佐賀関黒ヶ浜で息子を生みました。

その息子の名前がウガヤフキアエズ命です。そこからウガヤフキアエズ王朝が誕生し、宮下文書では51代続いたとされていて、ウエツフミや竹内文書では74代続いたとされています。

そもそもウガヤフキアエズ王朝の役割は、大陸から九州に攻めてくる海外の軍勢を監視することでした。

しかしウガヤフキアエズ王朝が長年九州にいてその地域を守っていたため、大陸からの海外の軍勢は紀伊半島から大和地方を攻めてくることになり、後の神武東征の舞台となるのでした。

なぜ神武天皇は東征したのか?

宮下文書でいうウガヤ朝の第51代のイツセ命の後と、ウエツフミでいうウガヤ朝の第73代が、カムヤマトイワレビコ命で、後の大和王権の初代天皇になる神武天皇のことを指しています。

そもそも神武東征の最初のきっかけは、紀元前後に巨大地震などにより天変地異が発生したため、九州は食料飢餓を向かえることになりました。

神武天皇は記紀では紀元前660年に天皇に即位したと記されています。ただし当時は天皇という言葉はなく大王(おおきみ)と呼ばれていました。

しかし第73世武内宿禰(たけのうちのすくね)こと故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏によると、神武天皇は西暦57年に橿原の宮で大王に即位したと言われています。

これなら紀元前後の巨大地震があった年とつじつまが合ってくるわけです。

そこでウエツフミで言う、ウガヤフキアエズ王朝の第71代とその息子のイツセ命(当時の皇子)が畿内に移動したのですが、大和で待ち構えていたナガスネヒコの軍勢と、大群で紀伊半島から渡来していた新羅(しらぎ)の軍勢との連合軍に、皇族側が攻められて、イツセ命が矢を放たれて死亡してしまいました。

そのことを聞いて驚いた皇族関係者が、各国のタケル(その地域の長、今でいう都道府県知事のようなもの)から軍勢を集結し強力な軍力を調えて、畿内へと向かいました。

それを指揮することになったのがカムヤマトイワレビコ命、後の神武天皇でした。

そこから始まる「暗黒の世」と言われる17年間、イワレビコの軍勢は奈良周辺から紀伊半島の広範囲にて渡来系勢力と交戦することになります。

イワレビコ側の陣営はハヤタマノヤマダ命(藤原氏物部氏系統)の軍勢と、ウマシマジ命(蘇我氏大伴氏系統)の軍勢でした。

最終的に、蘇我氏大伴氏系統のウマシマジ命が、敵陣をあざむいて、陣中に潜入して、ナガスネヒコを自殺に追い込みました。ただナガスネヒコは死んだという説と、そうではなく津軽に逃げたという説があるので、史実はわかりません。

そして長く続いたナガスネヒコ軍勢との戦争が終わり、カムヤマトイワレビコ命は西暦57年に大和の橿原の宮で大王に即位しました。

西暦57年に後漢に朝貢して後漢から漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)の金印を授かったのが初代天皇の神武天皇の可能性があります。

そして西暦107年に倭国から後漢に朝貢したのが師升(すいしょう)という人物であると後漢書に記されています。その人物はおそらく第3代目の安寧(あんねい)天皇ではないかと思います。

安寧天皇の本名が、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)といい師木津日子の師と師升の師が一致しています。

卑弥呼が生きていた時代の天皇は誰?卑弥呼はなぜ記紀の歴史に出てこなかったのか?

せっかく大和の地を手に入れた大和王権だったのですが、食料飢餓の時代はなかなか解決せずに、大和王権だけが米を大量に所持していることに対し、周りの国が反乱をおこし、4代目の懿徳(いとく)天皇の時代に、吉備王国(現在の岡山県)に大和を占領されてしまいます。

大和王権は再び大和の地を離れ、九州に戻ることになりました。第5代目の孝昭(こうしょう)天皇(140年即位)、第6代目の孝安(こうあん)天皇(157年即位)、第7代目の孝霊(こうれい)天皇(171年即位)、第8代目の孝元(こうげん)天皇(186年即位)と4人とも頭文字に孝がついている天皇は、すべて九州で即位した天皇です。

この時に中国の歴史書である三国志(さんごくし)・魏書(ぎしょ)・第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがんせんびとういでん )・倭人条(わじんのじょう)(通称、魏志倭人伝(ぎしわじんでん))で大和国のことを邪馬台国という当て字で記されてしまいます。

当時の日本は、魏志倭人伝に「倭国大乱」と記され、国同士の戦いがなかなか治まりませんでした。蝦夷(東北~関東)・吉備王国(岡山県)・出雲王国(島根県東部~鳥取県西部)・熊襲または隼人(鹿児島県)・大和国(鹿児島県以外の九州)などの国どうしがまとまっていませんでした。

そして西暦186年に第7代統治王の孝霊天皇が崩御し、皇子だった孝元天皇が第8代統治王となり、孝元天皇の妹の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)こと魏志倭人伝に登場した卑弥呼が第8代の祭祀王(さいしおう)になりました。

当時は統治王より祭祀王の方が身分が上だったので、天皇の上に卑弥呼がいた状態になっていました。だから魏からすると卑弥呼が女王に見えたのでしょう。

卑弥呼が女王になったことによって、倭国は大乱が治まり平和になったと、魏志倭人伝に記されています。

しかし実際には吉備王国との戦争があったようです。孝元天皇が本格的に吉備王国攻略に向けて動き出す前に、孝霊天皇の時代にも天皇の兄である大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)が軍事王として吉備王国と本格的に戦いました。名前からしてみても、吉備王国に諸に進み行くぞ!という意味が込められているようです。

その後、孝霊天皇の息子にも二人の吉備津彦が出てきます。その名前が大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)です。以上の三人が昔話で知られる桃太郎のモデルになります。伯父と甥二人の計三人を総称して桃太郎ということになります。

桃太郎に出てくるきび団子とは吉備王国を攻略したらもらえる領地のことを指しています。そしてきび団子に釣られて桃太郎に従った家来たちがいったい誰だったのかというと、犬=犬養氏の軍勢、猿=猿女氏の軍勢、雉=鳥取一族の軍勢になります。

戦ったとされる吉備の王(鬼)は温羅(うら)といい、温羅の牙城(鬼が島)は鬼みたいに強かったので誰も崩すことができませんでした。

そこで猿女氏が温羅を騙すために和睦を装って宴会を開きました。そして酔っ払った温羅が気を抜いている時に女装した猿女氏が踊りながら温羅に近づいて行って、隠して持っていた刀で切り殺しました。騙して温羅を切り殺したので、裏切るという言葉ができました。

統治王が第9代開花天皇の時代には、大和王権が再度大和の地を手に入れました。なので邪馬台国の卑弥呼は北部九州で祭祀王になり、後に大和に東遷したというのが正しい説になります。

つまり邪馬台国の場所は、九州でもあり、畿内でもあった、つまり両方とも正解だったということになります。

そして238年または239年に魏の王朝から、「親魏倭王印(しんぎわおういん)」を北部九州の地で授かり、晩年になってから大和の地へ行ったのではないかと考えています。

そして第8代孝元天皇、第9代開化天皇、第10代崇神天皇までの期間、ずっと卑弥呼が祭祀王になっていたわけです。卑弥呼は247年または248年に崩御しましたが、崇神天皇は卑弥呼が死んだ6~7年後の254年に崩御しました。

ただ卑弥呼の死は年齢的に老衰で亡くなったのか、それとも神の声を聞けなくなったため暗殺されたのかは未だに謎に包まれています。

そして卑弥呼のお墓は奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)でまず間違いないでしょう。記紀では倭迹迹日百襲姫命の墓となっています。

箸墓古墳は前方後円墳なので卑弥呼の墓ではないという説もあります。確かに魏志倭人伝に径百余歩とあることから、円墳の直径のことが記されています。

魏の1歩は5尺で1尺が約30cmなので、1歩で約1.5mになります。そうすると100歩で約150m、余歩を約10mとして計算するとだいたい160mの円墳になります。しかし卑弥呼の時期で直径が160mに該当する円墳は見つかっていません。

箸墓古墳を円墳として前方は後から作られたものだと考えてみるとどうでしょうか。後円部の直径はだいたい160mになります。そう考えると卑弥呼の墓にぴったり一致してしまうのです。

卑弥呼が死んだ後、再び男王になったのですが、再び倭国大乱になったと魏志倭人伝に記されています。

後に卑弥呼の宗女(血縁)である13歳の少女、台与(とよ)が女王になると再び倭国が平和になったと記されています。魏志倭人伝の台与とは記紀では第10代崇神天皇の娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)だと言われています。

台与が女王になった後に「空白の150年」という時期が訪れます。空白の150年とは西暦267年〜412年の間で、中国が戦乱のため日本のことまで見る余裕が中国になかった時代のことを指します。別名「空白の4世紀」とも言われています。その間に女性の祭祀王という存在は消えてしまっていました。

しかし卑弥呼の出来事も、記紀などの日本の正史と呼ばれる歴史の中では、完全に隠されてしまっています。なぜ隠されたのでしょうか?

女性の方が男性より上のポジションにいたという史実、日本が中国に貢いでいたという史実、おそらくこれらの史実は記紀を編纂した当時の藤原不比等にとって邪魔だったから抹消して歴史から隠されたのでしょう。

確かに日本が中国に貢いだということは、日本が中国の属国のような存在になってしまうので、中国と対等に向き合えなくなってしまいます。そういう意味では良かったのではないでしょうか。

歴史が隠されたのは卑弥呼や台与だけではありません。もっと時代の古い祭祀王であったであろう瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)やかぐや姫、大和王権より先に成立されていた富士高天原王朝やウガヤフキアエズ王朝なども隠された歴史の一つだと言えます。

そしてなんとなんと、日本で一番目立っている存在であるあの富士山のことも、記紀ではまったく一言も出てきません。完全に日本神話から無くそうとしていますが、ある意味日本人が誰でも知っている富士山だけに不自然です。やはり富士王朝を隠すために富士山には触れたくはなかったのでしょう。

いかがだったでしょうか?この記事では「日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!」について解説させていただきました。

それにしても古事記や日本書紀などの記紀が正史で、正統竹内文書や宮下文書、ウエツフミ、ホツマツタヱなどが偽書として取り扱われていますが、どっちが史実でどっちが偽書なのか?は、もっともっと深く研究をして、史実を暴いていくことも必要だと筆者は強く感じています。

古代史の魅力はどんなに研究を進めていっても、すべての史実が判明しないところ辺りが何かモヤモヤ感があるのですが、そこがまたロマンがあって面白いところではないでしょうか。あなたの歴史的な意見も、ぜひコメント欄などで聞かせていただけましたらとてもうれしい限りでございます。

最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでもあなたのお役に立てたらうれしいです。
筆者はいつでもあなたを応援しています。
それでは皆様に感謝をこめて終わりたいと思います。
ではまた!

はてなブログの方は

読者登録をお願いします(^_-)-☆

Amazonプライム無料体験に登録する

ブログを始めるなら【はてなブログPro】

ドメイン取るなら【お名前.com】

レンタルサーバーなら【エックスサーバー】

レンタルサーバーなら【ロリポップ!】

レンタルサーバーなら【mixhost】

アフィリエイトで収入を得るならA8.net

アフィリエイトで収入を得るなら「もしもアフィリエイト」

▼今すぐTwitterのフォローをする▼

▼ブログ村に参加しました▼

雑記ブログ 芸能ブログ・テーマ
雑記ブログ(2021年9月9日17:00より)

▼この記事を今すぐSNSにシェアする▼