こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。
今回は『初代 神武天皇はなぜ大和の地に東遷したのか?!記紀の日本神話では本当のことが隠されている!』について解説させていただきたいと思います。
この記事は、あくまでも筆者の独断と偏見で書いているので、一説のエンターテイメントとして楽しんでいただけたらうれしいです。
宮下文書でいうウガヤフキアエズ王朝の第51代のイツセ命の後と、ウエツフミでいうウガヤフキアエズ王朝の第73代が、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)で、後の大和王権の初代天皇になる神武天皇のことを指しています。
そもそも神武東征の最初のきっかけは、紀元前後に巨大地震などにより天変地異が発生したため、九州は食料飢餓を向かえることになりました。
神武天皇は記紀では紀元前660年に天皇に即位したと記されています。ただし当時は天皇という言葉はなく大王(おおきみ)と呼ばれていました。
しかし第73世武内宿禰(たけのうちのすくね)こと故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏によると、神武天皇は西暦57年に橿原の宮で大王に即位したと言われています。
これなら紀元前後の巨大地震があった年とつじつまが合ってくるわけです。
ちなみに初代天皇から第12代天皇の即位年は下記のようになると竹内睦泰氏はおっしゃられています。
- 初代 神武(じんむ)天皇 57年
- 第2代 綏靖(すいぜい)天皇 75年
- 第3代 安寧(あんねい)天皇 107年
- 第4代 懿徳(いとく)天皇 124年
- 第5代 孝昭(こうしょう)天皇 140年
- 第6代 孝安(こうあん)天皇 157年
- 第7代 孝霊(こうれい)天皇 171年
- 第8代 孝元(こうげん)天皇 186年
- 第9代 開化(かいか)天皇 204年
- 第10代 崇神(すじん)天皇 220年
- 第11代 垂仁(すいにん)天皇 254年
- 第12代 景行(けいこう)天皇 304年
そこでウエツフミで言う、ウガヤフキアエズ王朝の第71代とその息子のイツセ命(当時の皇子)が畿内に移動したのですが、大和で待ち構えていたナガスネヒコの軍勢と、大群で紀伊半島から渡来していた新羅(しらぎ)の軍勢との連合軍に、皇族側が攻められて、イツセ命が矢を放たれて死亡してしまいました。
そのことを聞いて驚いた皇族関係者が、各国のタケル(その地域の長、今でいう都道府県知事のようなもの)から軍勢を集結し強力な軍力を調えて、畿内へと向かいました。
それを指揮することになったのが神倭伊波礼毘古命でした。
そこから始まる「暗黒の世」と言われる17年間、伊波礼毘古の軍勢は奈良周辺から紀伊半島の広範囲にて渡来系勢力と交戦することになります。
伊波礼毘古側の陣営はハヤタマノヤマダ命(藤原氏物部氏系統)の軍勢と、ウマシマジ命(蘇我氏大伴氏系統)の軍勢でした。
最終的に、蘇我氏大伴氏系統のウマシマジ命が、敵陣をあざむいて、陣中に潜入して、ナガスネヒコを自殺に追い込みました。
ただナガスネヒコは死んだという説と、そうではなく津軽に逃げたという説があるので、史実はわかりません。
そして長く続いたナガスネヒコ軍勢との戦争が終わり、神倭伊波礼毘古命は西暦57年に大和の橿原の宮で大王に即位しました。
西暦57年に後漢に朝貢して後漢から漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印を授かったのが神武天皇の可能性があります。
そして西暦107年に倭国から後漢に朝貢したのが師升(すいしょう)という人物であると後漢書に記されています。
その人物はおそらく第3代の安寧天皇ではないかと言われています。
それは安寧天皇の本名が、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)といい、師木津日子の師と師升の師が一致しているところからそういわれているようです。
そして238年または239年に、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した卑弥呼に対し親魏倭王の称号を与え、金印を授けます。
中国から金印を授かった例は、記録として残っているものとしては、漢委奴国王の金印と卑弥呼の親魏倭王の金印の2つだけです。
いかがだったでしょうか?
この記事では「初代 神武天皇はなぜ大和の地に東遷したのか?!記紀の日本神話では本当のことが隠されている!」について解説させていただきました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでもあなたのお役に立てたらうれしいです。
筆者はいつでもあなたを応援しています。
それでは皆様に感謝をこめて終わりたいと思います。
ではまた!
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雑記ブログ(2021年9月9日17:00より)
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