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毎晩お家で楽しくお酒を飲むのが大好きで、最近は歴史に凝っている筆者が書いている雑記ブログです。

【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?

吉野ヶ里遺跡

日本史で最大のミステリーと言われている邪馬台国の女王である卑弥呼の歴史とはいったいどうなっていたのでしょう。

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?』について解説させていただきたいと思います。

女王国とは北部九州全域の「倭国連合」だった!

女王国とは小国の邪馬台国を含めた北部九州全域の「倭国(あるいは邪馬台国)連合」のことで、30国(對馬国・一大国・末廬国・伊都国・奴国・不弥国・他)の小国が連合して成り立った連合国だったのではないかと思われます。

邪馬台国の「邪馬台」は、「やまと」という発音を、魏(中国)が「邪馬台」という当て字にしたもので、福岡県の「柳川市」や「みやま市」のあたりは、もともと旧の「山門(やまと)郡」だったことから、当時の「やまと」のなごりで山門郡の地名が残ったのかと推測しています。

但し大和王朝とはまったく別の国です。詳しくは「4つのポイントでわかる!邪馬台国は大和王朝の前進国だったのか?それとも邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったのか?」をご参照ください。

しかし邪馬台国の場所は、江戸時代からずっと、大きく分けて、九州説と畿内説という2つの説が、未だに決着していない古代ミステリー最大の謎となっています。

歴史家などの専門家が、よくあれだけいろいろなことを好き勝手に言えるものだなと筆者は感心してしまいます。歴史家が歴史書を無視して説を創るんですからね。

まず邪馬台国やその女王であった卑弥呼の時代には、日本ではまだ文字が存在しなかったのです。そのために日本の歴史書である古事記や日本書紀には、邪馬台国や卑弥呼の名前は一切記されていません。

ではなぜ邪馬台国という場所があったことや、女王の卑弥呼が実際にいたことがわかったのでしょうか。それは中国の三国時代(魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく))の歴史書に記されていたからです。

三国時代の歴史書である『三国志』の中の、魏の歴史書である「魏書」というものがありました。その中の第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(うがんせんびとういでん わじんのじょう)というところがありました。

通称「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と言います。その中で、倭人(日本人)のことが詳しく記されていました。

畿内説はありえない

魏志倭人伝では、朝鮮半島から邪馬台国への行程が記されています。

  • 帯方郡(たいほうぐん 現在のソウル付近)から水行七千余里で狗奴韓国(くなかんこく 朝鮮半島南部)到着
  • 狗奴韓国から水行千余里で對馬国(つしまこく 対馬 千余戸)到着
  • 對馬国から水行千余里で一大国(いきこく 壱岐 三千余戸)到着
  • 一大国から水行千余里で北九州に上陸した地点が末廬国(まつらこく、旧の松浦郡で現在の佐賀県唐津市付近 四千余戸)到着
  • 末廬国から五百余里で伊都国(いとこく 糸島市 一万余戸)到着
  • 伊都国から百余里で奴国(なこく 福岡市から春日市一帯 二万余戸)到着
  • 奴国から百余里で不弥国(ふみこく 糟屋郡宇美町 千余戸)到着
  • 南へ水行20日で投馬国(つまこく 宮崎平野全域 五万余戸)到着
  • 南へ水行10日・陸行1月で邪馬台国(やまたいこく 所在不明 七万余戸)到着
  • 帯方郡から女王国まで一万ニ千余里

不弥国までの個々の行程は、距離で記されていたのですが、投馬国や邪馬台国に行く行程は、なんと日数で記されています。正にこの文章が九州説や畿内説という論争が始まった原因なんですよね。

実は上の帯方郡から邪馬台国までの行程の記され方が、1点だけおかしいような気がするのです。

不弥国までの行程の後に投馬国への行程が記されていて、その後に邪馬台国への行程が記されていることで、帯方郡から邪馬台国までの連続した全行程と見なされてしまい勝ちです。

もし投馬国が宮崎県の都萬(つま)神社がある宮崎県西都市(さいとし)妻(つま)という地名のもとの国であった場合、投馬国は宮崎県ということになります。それなら邪馬台国までの行程の間に投馬国までの行程が入ってくるのは不自然だと感じます。

そこで日数で記されている投馬国までの行程と、邪馬台国までの行程を、切り離して考えてみるとどうなるのでしょうか?

投馬国までの南へ水行20日というところは、不弥国からではなくて、帯方郡から投馬国までの直接の水行の距離のことを記しているとするのです。

そして邪馬台国までの南へ水行10日に関しても、投馬国からではなくて、帯方郡から船で狗奴韓国・對馬国・一大国を経て末廬国に到着した距離の一万里が、水行10日のことを言っているとなります。

さらに南へ陸行1月に関しても、帯方郡から女王の国までのトータルの行程が一万二千余里と記されているので、末廬国から伊都国・奴国・不弥国を経て邪馬台国に到着する距離の残り二千里が、陸行1月のことを記しているのす。そう考えるとつじつまが合ってスッキリとしますよね。

そして魏志倭人伝の中で「伊都国に一大率を置いて、邪馬台国の北の諸国を点検・観察させていた。」と記されている以上、邪馬台国の所在地は九州説で確定になります。

だって福岡県糸島市に一大率を置いて、奈良県の北にある京都府や滋賀県・福井県などを点検して観察するなんて、実際のところありえない話ですよね。なので畿内説はないということです。

卑弥呼はいったいどこに暮らしていたのでしょう

筑紫平野という広大な土地の中にいくつかの小国が連合して成り立った国がヤマト連合国だと前述しました。ではその広大な筑紫平野の中で、女王の卑弥呼が暮らしていた場所とはいったいどこだったのでしょうか。

卑弥呼が定住していた場所は、氾濫を繰り返す筑後川付近ではないかと思っています。その筑後川の下流は氾濫が多かったため、女王が定住するにはあまりにもリスクが大きすぎると思うので、それはないと思います。

筑後川の下流域には水田稲作をやっていた農民たちが暮らしていたと考えます。そしてその筑後川の上流で、川の氾濫などを左右させているような立場にいたのが、女王の卑弥呼だったのではないでしょうか。

というわけで卑弥呼が暮らしていたのは筑後川の上流部だと推測できます。そしてその場所はズバリ!福岡県朝倉市平塚にある平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)だと筆者は考えています。

まとめ

この記事では『【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?』について解説させていただきました。

  • 邪馬台国は福岡県から佐賀県にかけての筑紫平野全域で、いくつかの小国から成り立ったヤマト連合国だった
  • 魏志倭人伝の中で「伊都国に一大率を置いて、邪馬台国の北の諸国を点検・観察させていた。」と記されている以上、邪馬台国の所在地は北部九州で確定
  • 卑弥呼が暮らしていたのは筑後川の上流である

これが合っているかどうかはタイムマシンでその時代に行ってみないと証明はできませんが、かなりいい線をついていると思いますよ。

最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでもあなたのお役に立てたらうれしいです。
筆者はいつでもあなたを応援しています。
それでは皆様に感謝をこめて終わりたいと思います。
ではまた!

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雑記ブログ(2021年9月9日17:00より)

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