邪馬台国と大和王朝はいったいどんな関係だったのでしょうか。邪馬台国が大和王朝の前進国だったという説がどうして出たかというと、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と卑弥呼(ひみこ)に多数の共通した事績があるからではないでしょうか。
天照大御神と卑弥呼の10個の共通点
- 女性である
- 宗教的権威がある
- 夫がいない
- 弟がいる
- 女王の言葉を伝えるために出入りしていた男と高木神(たかぎのかみ)が符号
- 古事記に出てくる「倭」の文字と卑弥呼は倭の女王であることが関連
- 大和王朝の「やまと」と邪馬台国の「やまたい」の音が類似
- 卑弥呼の宗女・台与(とよ)にあたる人物を、日本の史料にも確認できる
- 卑弥呼死後の争乱と思われる記述が古事記にある
- 天照大御神の岩戸隠れで世の中が真っ暗になったことと、卑弥呼が没した前後の247年と248年に中国で皆既日食があったことが類似
などです。
こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。
今回は『4つのポイントでわかる!邪馬台国は大和王朝の前進国だったのか?それとも邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったのか?』について解説させていただきたいと思います。
【目 次】
邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だった
筆者にしてみると、天照大御神と卑弥呼の事績が類似しているため、邪馬台国が大和王朝の前進国で、天照大御神と卑弥呼が同一人物だったという説が、ロマンがあって望ましいのですが、どう考えても無理があるような気がしています。
邪馬台国の場所は北部九州説が強く、大和王朝はというと、古事記や日本書紀に出てくる日本神話では、神武天皇(じんむてんのう)は宮崎県にある日向(ひむか、現在の日向市(ひゅうがし))から海路で大和(奈良県)へ向けて出発しました。
ということは、邪馬台国の場所は北部九州で、神武天皇は宮崎県にいたということになります。この位置関係から考えてみると、邪馬台国と大和王朝の前進はまったく別の国だったのではないでしょうか。
では、邪馬台国と大和王朝がまったく別の国だったという理由は、他にもあるのでしょうか。その理由は4つあります。次項ではその4つの理由について解説させていただきます。
邪馬台国と大和王朝がまったく別の国だった4つの理由
1.地理的に場所が違う
前述したように邪馬台国の場所は、北部九州の筑紫平野一帯の広大な土地が最有力で、神武天皇がいたであろう場所は、宮崎県の日向(ひむか、現在の日向市)です。そして日向から海路で大和(奈良)に向かったとされています。
先ほどにも述べましたが、筑紫平野と日向では地理的に考えても場所がまったく違うということが第一の理由です。
2.時代が違う
そして西暦554年以前までの日本が春秋歴(春から秋で1年、秋から春でまた1年)を使っていました。要するに1年で2年だと計算されていました。
なので神武天皇の即位の時期が紀元前660年の説は間違っていて、もう少し後の時代になると思います。
ただ、後の時代になるとしても、昔の大阪の地形学から考えてみると、難波𥔎(なにわのみさき)から川をさかのぼって白肩津(しらかたのつ)に船で行けるのは、紀元前1,050年から紀元前50年までの河内潟の時代で、これは炭素14年代法によって確定しています。
ちなみに紀元前1,050年以前の大阪平野は河内湾になっていて、紀元前50年以降の大阪平野は河内湖になっていました。
なので少なくとも紀元前50年よりは前の時代であったことは間違いがなさそうです。
卑弥呼が魏に使いを送ったのが西暦239年なので、時期的に見ても神武天皇の即位の方が、少なくとも300年は昔の話なのです。
要するに時代的にまったく合わないことが第二の理由です。
それなのに当時の天皇の即位の平均が約9~10年前後だったという計算で、神武天皇の即位が、おおむね西暦280~290年頃であるという仮説をたてている古代史研究家もいるのです。しかしその根拠はヨーロッパや中国の国王の即位の年数に合わせているだけなのです。
確かにそれだと天照大御神は神武天皇の5代前ですので、約50年前の西暦230~240年頃に活躍した卑弥呼の年代とは合ってきます。しかし天皇の即位の年代を、年代論だけで片付けてしまっていいのか?という疑問が残ります。
3.奴隷の有無
そして邪馬台国の特徴として卑弥呼が行ったことの1つに、魏の皇帝に奴隷を送ったということが魏志倭人伝に記されています。ということは、女王の国では奴隷を使用していたことになります。要するに、卑弥呼は今でいう人種差別をしていた女王ということになるのです。
これは邪馬台国だけに限らず、西暦57年の奴国でも魏の皇帝に奴隷を送ったということが、後漢の史実に記されています。
一方、大和王朝では奴隷を魏の皇帝に送るような史実は、どの歴史書を見ても記されていません。それどころか奴隷を使ったこと自体が史実に出てきていません。
これは明らかに邪馬台国と大和王朝が違う国である証拠になると思います。なので奴隷を使っていたか使っていなかったかの違いが第三の理由です。
4.入れ墨の有無
そして後漢書や魏志倭人伝によると「倭の男子は、成人・子どもの区別なく、みんな顔面や体に入れ墨をしている。」と記されています。
縄文時代から倭の国の男子はあちこちで入れ墨を入れる習慣があったようです。それは海洋民族だった縄文人が海で亡くなっても誰なのかを判明できるようにしていたから入れ墨を入れていたのです。
入れ墨を入れた絵や黥面土偶(げいめんどぐう)が発掘されている場所は、全国に多々あるのですが、不思議なことに、宮崎県と奈良県からは一切発掘されていないのです。
どういうことかというと、神武天皇の発祥の地である日向(宮崎県)と、神武東征で訪れた新たな地の大和(奈良県)には入れ墨をする文化がなかったのだろうと推測できるということです。
このことからも入れ墨を入れた男子がいる邪馬台国と、入れ墨を入れる文化がない大和王朝はまったく別の国だと言えるのではないでしょうか。その入れ墨の文化の違いが第四の理由なのです。
神武天皇はどうして大和に移ったのか?
縄文文明から農耕定住型の弥生文明に、つまり水田稲作に移行したのですが、神武天皇の時代は水田稲作に移行した後です。水田稲作に移行すると生産性が向上して人口が増加しました。
そもそも神武天皇たちが別の土地を目指した理由は、生産性が向上して人口が増えすぎてしまって、日向の土地だけでは人を養いきれなくなったのではないかと思われます。
しかし水田稲作の文明というのは、いくつもの弱点があります。1つは木材エネルギーです。要するに人口が増えると木が切られていくということです。
ちなみに世界の四大文明の、メソポタミア(イラク)文明・エジプト文明・インダス(インド)文明・黄河(中国)文明の4つの文明というものは、農耕定住型文明でした。
すると人口が増えていき、エネルギーが必要になります。なぜかというと人間というのは、穀物を煮炊きしなければ食べられないように進化してしまっているからなのです。
ということで木を切っていきます。つまり人間は、木を切らないと生きていけないのです。今は木を切らなくても火をおこせますが、当時は木を切らないと火をおこせませんでした。
ということで人口が増えていくと、ひたすら木を切っていき、さらにメソポタミアなどでは、その場所で家畜を飼って畜産物から動物性タンパク質を摂ろうとします。その結果、家畜が木の実や草の芽とかを食べてしまい、だんだんと荒地になり、最後には砂漠になってしまったわけです。
そして水田稲作の最大の弱点は、木材や水資源が必要になるため、土地の奪い合いで軍隊を率いて戦争になってしまうことです。世界四大文明は砂漠化と戦争で滅びたといっても過言ではないでしょう。
神武天皇たちが目指した奈良盆地というのは、周囲を森で囲まれていて、山々とたくさんの森があり、すばらしい土地だったのです。
ちなみに日本は畜産をしなかったのでメソポタミアや黄河のように、家畜が木の実や草の芽を食べていってしまうなんてことはありませんが、毎日の煮炊きで膨大な木材が必要になります。
水田稲作なのだからもちろん水資源も必要になります。川、あるいは湖が必要です。さらに日本人は、家畜を飼わなかった代わりに、動物性タンパク質を魚や貝などの海産物から摂りました。
そして奈良盆地は見事にすべてを満たしていました。周囲が森林で囲まれており、真ん中に奈良湖があり河川もありました。あと生駒山の向こうが大阪平野なのですが、紀元前の当時は大阪平野はなく海だったのです。
しかも盆地ということで、海に行きたかったら生駒山を超えるだけで海が広まっていました。すべての条件を満たす最高の土地だったのです。
人口が増えすぎて日向の土地だけでは養いきれない人を養うために、神武天皇は大和の地(奈良県)を選択したのです。
まとめ
この記事では『4つのポイントでわかる!邪馬台国は大和王朝の前進国だったのか?それとも邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったのか?』について解説させていただきました。
結論としましては、邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったということです。その理由は下記の4つです。
- 地理的には、邪馬台国の場所は北部九州で、神武天皇は日向(宮崎県)にいた。
- 時代的には、神武天皇が橿原で天皇に即位したのは、紀元前50年以前の話なのですが、卑弥呼が活躍した時代はは西暦200年以降です。
- 奴隷の有無では、邪馬台国の女王の卑弥呼は奴隷を魏に送りました。一方で神武天皇は奴隷をまったく使っていませんでした。
- 入れ墨の有無では、邪馬台国の人は縄文時代にありがちな、男子は年齢を問わず入れ墨をしていました。一方で神武天皇の聖地である日向(宮崎)や、後の大和(奈良)では入れ墨の文化がありませんでした。
以上のことから、天照大御神=卑弥呼の説は正しくなく、邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったと言えるということが言えるのではないでしょうか。
どうでしょうか。この説をご理解していただけましたでしょうか。これは筆者の独自の考え方もありますが、地質学などの科学的な根拠で証明されてきたたことや、昔の中国の後漢書や魏志倭人伝、日本の古事記や日本書紀などの書物を素直に読解すれば判明すると思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでもあなたのお役に立てたらうれしいです。
筆者はいつでもあなたを応援しています。
それでは皆様に感謝をこめて終わりたいと思います。
ではまた!
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雑記ブログ(2021年9月9日17:00より)
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