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毎晩お家で楽しくお酒を飲むのが大好きで、最近は歴史に凝っている筆者が書いている雑記ブログです。

ジンギスカンの発祥の地は北海道じゃなかったの?! 実は〇〇で有名な、あの場所だった!?

ジンギスカン

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

 

今回は「旨いもんを食う!byたかぼん」のYouTubeチャンネルで、ジンギスカンについての話題を取り上げました。

今日はめっちゃ旨いジンギスカンについてのお話です。

諸説はありますが、おそらくこの話が有力だと筆者は思っています。

 

みなさんは、ジンギスカンの発祥の地がどこだか知っていますでしょうか?

ジンギスカン発祥の地は、北海道だと思われがちなのですが、実は違っていたのです。

確かにジンギスカンは北海道で人気が爆発して、今や北海道の郷土料理にまでなっています。

しかし、だからと言って北海道でジンギスカンが初めて食べられた場所とは限らないのです。

 

実はジンギスカンの発祥の地は、温泉で有名な山形県の蔵王だったんです。

山形県では羊毛を生産するために綿羊をたくさん飼育していました。

しかし戦後、ビニールやナイロンなどの化学繊維の生産が盛んになり、羊毛の売上が暴落し始めました。

その為、羊を飼育する酪農家を救済する必要がでてきました。

 

日本綿羊協会の会長はモンゴルに渡った時に、モンゴルで鉄兜に羊の肉をのせて焼いた料理を目にしました。

モンゴルではジンギスカンという名前の料理はありません。他の国でもありません。

ジンギスカンは日本独自でネーミングされた料理になります。料理というか肉を焼いて専用のタレをつけて食べる焼肉スタイルです。

ジンギスカンを漢字で書くと「成吉思汗」。「せいきちしかん」もしくは「じょうきちしかん」としか読めないように思いますが、これでジンギスカンと読むそうです。

 

山形県では、綿羊から毛糸を作るだけでは生活していけない酪農家たちに、羊料理をすすめることになります。

モンゴルで鉄兜を使用して焼くヒツジ料理をヒントにして、山形県の工場ではジンギスカンの鉄鍋が作られるようになりました。

 

さらに、1959年2月に山形市や米沢市で開催された国体の冬季大会(スキー競技会)では、選手たちの献立メニューにジンギスカンが入り、スキー選手たちにジンギスカンが大好評となりました。

そして大会に出た選手たちが、地元へのお土産に、羊の肉やジンギスカン鍋を買って帰り、またたく間に全国にジンギスカンが広まったそうです。

 

現在では北海道を中心に、全国で食べられているジンギスカン。北海道の郷土料理とも言われるようになったくらい、北海道ではジンギスカンの人気が強いです。

 

関西ではまだ馴染みが薄いかも知れませんが、今後は徐々にジンギスカンを食べられるレストランなどが増加していく可能性もあると思います。

 

筆者は1992年~1997年まで約5年半ほど、北海道に暮らしていたこともあり、個人的にジンギスカンの旨さはよく知っています。

サッポロビール園に行って、ジンギスカン食べ放題&ビール飲み放題でたらふくジンギスカンを食べて来た経験もあります。

というワケで、関西の方たちにもぜひ旨いジンギスカンを食べてほしいなと思っています。

 

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本日20:00にYouTubeにアップ予定!手羽元のトマト煮込みの動画の先行配信

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

12月になってめっちゃ寒くなっているので、風邪などをひかないようにお気をつけください。

本日20:00に下記のYouTubeのショートビデオをアップするので、takabonblog.comの読者さんに特別に先行配信いたします。

手羽元のトマト煮込みのYouTube動画

こんばんは!旨いもんを食うのたかぼんです。

今回は手羽元のトマト煮込みを作りました。

ポリ袋でシェイクしてオリーブオイルで炒めます。

フライパンに手羽元を入れていきます。

手羽元に焼き色が付くようにしっかりと炒めていきます。

しめじを準備しトマト缶を入れます。

少し煮込んでしめじを加えます。

そして赤ワインを入れて旨みをつけていきます。

ガラスープも加えてトマトケチャップとウスターソースで味を調えます。

その後は1時間ほどじっくりと煮込みます。

うまくできあがりました!

それでは食べてみます!

旨い!

 

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初代 神武天皇はなぜ大和の地に東遷したのか?!記紀の日本神話では本当のことが隠されている!

橿原神宮

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『初代 神武天皇はなぜ大和の地に東遷したのか?!記紀の日本神話では本当のことが隠されている!』について解説させていただきたいと思います。

 

この記事は、あくまでも筆者の独断と偏見で書いているので、一説のエンターテイメントとして楽しんでいただけたらうれしいです。

 

宮下文書でいうウガヤフキアエズ王朝の第51代のイツセ命の後と、ウエツフミでいうウガヤフキアエズ王朝の第73代が、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)で、後の大和王権の初代天皇になる神武天皇のことを指しています。

 

そもそも神武東征の最初のきっかけは、紀元前後に巨大地震などにより天変地異が発生したため、九州は食料飢餓を向かえることになりました。

 

神武天皇は記紀では紀元前660年に天皇に即位したと記されています。ただし当時は天皇という言葉はなく大王(おおきみ)と呼ばれていました。

 

しかし第73世武内宿禰(たけのうちのすくね)こと故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏によると、神武天皇は西暦57年に橿原の宮で大王に即位したと言われています。

 

これなら紀元前後の巨大地震があった年とつじつまが合ってくるわけです。

 

ちなみに初代天皇から第12代天皇の即位年は下記のようになると竹内睦泰氏はおっしゃられています。

 

  • 初代 神武(じんむ)天皇 57年
  • 第2代 綏靖(すいぜい)天皇 75年
  • 第3代 安寧(あんねい)天皇 107年
  • 第4代 懿徳(いとく)天皇 124年
  • 第5代 孝昭(こうしょう)天皇 140年
  • 第6代 孝安(こうあん)天皇 157年
  • 第7代 孝霊(こうれい)天皇 171年
  • 第8代 孝元(こうげん)天皇 186年
  • 第9代 開化(かいか)天皇 204年
  • 第10代 崇神(すじん)天皇 220年
  • 第11代 垂仁(すいにん)天皇 254年
  • 第12代 景行(けいこう)天皇 304年

 

そこでウエツフミで言う、ウガヤフキアエズ王朝の第71代とその息子のイツセ命(当時の皇子)が畿内に移動したのですが、大和で待ち構えていたナガスネヒコの軍勢と、大群で紀伊半島から渡来していた新羅(しらぎ)の軍勢との連合軍に、皇族側が攻められて、イツセ命が矢を放たれて死亡してしまいました。

 

そのことを聞いて驚いた皇族関係者が、各国のタケル(その地域の長、今でいう都道府県知事のようなもの)から軍勢を集結し強力な軍力を調えて、畿内へと向かいました。

 

それを指揮することになったのが神倭伊波礼毘古命でした。

 

そこから始まる「暗黒の世」と言われる17年間、伊波礼毘古の軍勢は奈良周辺から紀伊半島の広範囲にて渡来系勢力と交戦することになります。

 

伊波礼毘古側の陣営はハヤタマノヤマダ命(藤原氏物部氏系統)の軍勢と、ウマシマジ命(蘇我氏大伴氏系統)の軍勢でした。

 

最終的に、蘇我氏大伴氏系統のウマシマジ命が、敵陣をあざむいて、陣中に潜入して、ナガスネヒコを自殺に追い込みました。

 

ただナガスネヒコは死んだという説と、そうではなく津軽に逃げたという説があるので、史実はわかりません。

 

そして長く続いたナガスネヒコ軍勢との戦争が終わり、神倭伊波礼毘古命は西暦57年に大和の橿原の宮で大王に即位しました。

 

西暦57年に後漢に朝貢して後漢から漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印を授かったのが神武天皇の可能性があります。

 

そして西暦107年に倭国から後漢に朝貢したのが師升(すいしょう)という人物であると後漢書に記されています。

 

その人物はおそらく第3代の安寧天皇ではないかと言われています。

 

それは安寧天皇の本名が、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)といい、師木津日子の師と師升の師が一致しているところからそういわれているようです。

 

そして238年または239年に、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した卑弥呼に対し親魏倭王の称号を与え、金印を授けます。

 

中国から金印を授かった例は、記録として残っているものとしては、漢委奴国王の金印と卑弥呼の親魏倭王の金印の2つだけです。

 

いかがだったでしょうか?

 

この記事では「初代 神武天皇はなぜ大和の地に東遷したのか?!記紀の日本神話では本当のことが隠されている!」について解説させていただきました。

 

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卑弥呼がいた時代の天皇はいったい誰だったのか?そして卑弥呼の本当のお墓はどこだったのか?

卑弥呼

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『卑弥呼がいた時代の天皇はいったい誰だったのか?そして卑弥呼の本当のお墓はどこだったのか?』について解説させていただきたいと思います。

 

この記事はあくまでも筆者の独断と偏見で書かせていただいているので、一説のエンターテイメントとしてお楽しみいただけたらうれしいです。

 

紀元前後の大地震の影響で、食料飢餓の時代が長く続き、大和王権だけが大量に米を所持していることに対し、周りの国々が反乱をおこし、第4代懿徳(いとく)天皇の時に倭国大乱の時代に突入しました。

 

そして吉備王国(現在の岡山県)に大和を占領されてしまいます。その為大和王権は再び大和の地を離れ、九州に戻ることになりました。第5代の孝昭(こうしょう)天皇(140年即位)、第6代の孝安(こうあん)天皇(157年即位)、第7代の孝霊(こうれい)天皇(171年即位)、第8代の孝元(こうげん)天皇(186年即位)と4人とも頭文字に「孝」がついている天皇は、すべて九州で即位しています。

 

基本的に記紀の即位年は中国向けにわざと長生きしているように見せかけているため、本当の即位年ではありません。初代神武天皇の即位年は紀元前660年ではなく、西暦57年あたりが正解です。

 

当時の倭国の年数の数え方は春秋歴といって春から秋で1年で秋から春で2年と数えられていたので、実際の年数はその半分にしないと合って来ません。

 

この時に中国の歴史書である三国志(さんごくし)・魏書(ぎしょ)・第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがんせんびとういでん )・倭人条(わじんのじょう)(通称、魏志倭人伝(ぎしわじんでん))で大和国のことを邪馬台国という当て字で記されてしまいます。

 

では卑弥呼が生きていた当時の天皇は誰だったのでしょうか?その当時の身分はどのようになっていたのでしょうか?それは下記のようになっていました。

  1. 祭祀王(さいしおう)
  2. 統治王(とうちおう)
  3. 軍事王(ぐんじおう)

となっていました。その中で2番目に偉い統治王が、歴代天皇として歴史に残されています。1番偉い祭祀王は女性が多かったのですが、記紀(古事記と日本書紀)などの歴史から消し去られています。

 

卑弥呼もそんな消し去られた歴史の中の1人です。西暦186年に第8代祭祀王になった人が卑弥呼です。卑弥呼が祭祀王でなっていた時代に統治王は3人います。その人物は第8代統治王が孝元(こうげん)天皇、第9代統治王が開化(かいか)天皇、第10代統治王が崇神(すじん)天皇です。

 

卑弥呼が祭祀王になっていた年代は、186年~247年、または186年~248年のどちらかです。61~62年間もの間、祭祀王でした。

 

実は記紀では卑弥呼のことを倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という名前に書き変えて登場しています。卑弥呼は完全に歴史から隠蔽されています。

 

そして邪馬台国の場所なのですが、卑弥呼が祭祀王に即位した当時の邪馬台国は大和から九州に逃れていたので、九州で間違いないです。しかし吉備王国との戦争に勝ち再び大和の地を取り戻したので、行く行くは大和に移っています。

 

238年または239年に魏から「親魏倭王印(しんぎわおうのいん)」を九州の地で授かり晩年になってから大和の地へ行ったのでしょう。

 

そして卑弥呼のお墓は奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)でまず間違いないでしょう。記紀では倭迹迹日百襲姫命の墓となっています。

 

箸墓古墳は前方後円墳なので卑弥呼の墓ではないという説もあります。確かに魏志倭人伝に径百余歩とあることから、円墳の直径のことが記されています。

 

魏の1歩は5尺で1尺が約30cmなので、1歩で約1.5mになります。そうすると100歩で約150m、余歩を約10mとして計算するとだいたい160mの円墳になります。しかし卑弥呼の時期で直径が160mに該当する円墳は見つかっていません。

 

箸墓古墳を円墳だと考えて、前方は後から作られたものだと考えてみるとどうなるでしょうか?後円部の直径はだいたい160mで魏志倭人伝の卑弥呼の墓にぴったり一致してしまうのです。

 

いかがだったでしょうか?この記事では「卑弥呼がいた時代の天皇はいったい誰だったのか?そして卑弥呼の本当のお墓はどこだったのか?」について解説させていただきました。

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日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!

ダイアモンド富士

あなたは古代の富士山の北麓で栄えた富士高天原王朝(ふじたかまがはらおうちょう)のことをご存じでしょうか?富士王朝とは大和王権の祖と言われています。要するに今の天皇陛下の祖なのです。

こんにちは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は7月24日以来45日ぶりの投稿で『日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!』について解説させていただきたいと思います。この記事で通算600記事目の節目になりますパチパチパチ!

あくまでも筆者の独断と偏見で書いているので、一説のエンターテイメントとして楽しんでいただけたらうれしいです。

大和王権の祖が富士王朝であった!

王朝には祭祀王(さいしおう)と統治王(とうちおう)がセットになっていて、統治王よりも祭祀王の方が身分が上でした。そして祭祀王には女性がなることが多かったのでこの時代の我が国は、女神信仰の国だったと言えます。

このことは現在では、時の男性の権力者の手によって、明らかに隠されている歴史になっています。

富士王朝は本州、四国、九州のほとんどの国を統治していました。そして各国にタケルという身分の役職を置いていました。現在で言う都道府県知事みたいなものですかね。

富士山というと日本一美しい、しかも日本最大の山である!ということは非常に有名なのですが、なんと古事記や日本書紀といった記紀には日本一目立つ富士山のことを一言も触れていません。

あんなに目立っている山なのに富士山が一度も出てこないのは不自然ではないでしょうか?

この富士山の北麓に都があった当時から、なぜかその都のことを「やまと」と言われていたそうです。

まだ漢字が日本に伝わっていない時代なので、もし漢字に当てはめるのならば、山の都なので「山都」がいいのではないかと思います。

記紀によると、筑紫の日向国(ひむかのくに・現在の宮崎県)の高千穂に高天原(たかまがはら)があり、そこにニニギ命(ににぎのみこと)が天孫降臨したとあります。

しかし富士王朝のことを記した古代の神代文字(かみよもじ)で記された古文書(こもんじょ)によると、高天原の場所は富士山周辺だったと記されていました。

この古文書は、初代神武天皇以前の超古代の王朝の様子を記した富士王朝の歴史が記された古文書です。

後に秦の始皇帝の使いで、不老不死の薬を探しに来日した徐福(じょふく)が、富士山(または不二山、または不死山)を見つけました。その時の富士王朝はアマテラス系の子孫が九州に遷都していたため、ツクヨミ系の子孫が富士王朝を引き継いでいました。

そして徐福のもとに富士王朝の神官(しんかん)たちがやってきて、古来から富士に伝わる歴史を徐福に伝え始めました。この当時に富士王朝で古代の神代文字(漢字伝来前の文字)を扱うことができたのは36の神官の家だけでした。

彼らは富士王朝の首都、家基都(かきつ)に住んでいて、神社に勤務しながら国内の主な出来事を、特殊な文字で記録してまとめていたとされています。

この神官たちはこの記録を徐福に伝えたのです。そしてこの話を聞いた徐福もとても感動して、「これはすごい話だ!絶対に後世に残すべきだ!」と言って、当時富士王朝に住んでいた36の神官の家のすべての記録をまとめることを提案しました。

そして富士王朝の神官たちも、徐福の提案に賛成し、徐福に漢字で文書を記してもらうことになりました。

徐福は神官たちが言ったことをすべて漢字で記しました。こうしてできたのが宮下文書だと言われています。

つまり宮下文書とは、富士王朝に残っていた複数の書物を、徐福が編纂してまとめたということです。そして徐福の子孫が後を引き継いで完成させていきました。

こうやってできた宮下文書は不二阿祖山太神宮(ふじあそやまだいじんぐう)の神官によって守られ続けてきました。

そしてそれを当時の神官であった宮下氏の子孫が家宝として引き継いでいたものが、現在の宮下文書と言われています。

宮下氏の子孫では、この家宝だけは何があっても絶対に守るように先祖代々から言い伝えられたものを守っていたのですが、中身を見たら目がつぶれると言い伝えられていたため、何が入っているのかは誰も知りませんでした。

ちなみに江戸時代のとある日に、宮下家が火事の災害に見舞われた事件があったのですが、中にいったい何が入れられているのかは誰もわからないのですが、その家宝だけは大事に守り切りました。

明治時代になり目がつぶれるという迷信はないと信じられるようになり、中身を確認したところ、徐福が漢字で記された古代の文書が入っていました。宮下氏の子孫が受け継いできた文書だったので、宮下文書と言われるようになりました。

そして宮下文書に記されている富士王朝の当時の王様は、現在の山梨県富士吉田市にある日本最古の神社と言われている不二阿祖山太神宮で大王(おおきみ)に即位していたのです。

記紀によると西日本からだんだんと国が広がってきたように記されていますが、この富士王朝の時代は西日本より東日本の方が圧倒的に人口が多かったと言います。

越の国は、越前(福井県あたり)・越中(富山県あたり)・越後(新潟県あたり)から成り立ち、東北地方と同じズーズー弁の方が多いのですが、なんと面白いことに島根県東部から鳥取県西部にあったその当時の出雲王国もズーズー弁だったのです。

つまり出雲族とは島根県東部や鳥取県西部あたりだけではなく、青森県から島根県までの日本海側全域に存在していたようです。

なぜ富士王朝はウガヤフキアエズ王朝に変わったのか?

富士王朝は約9,000年前から存在していたと言われています。しかし今から約3,000年前頃のニニギの時代に、大陸から渡来人の大群が九州や四国に攻めてきました。

ニニギと臣民が一丸となって辛うじて大陸軍に勝つことができたのですが、コトシロヌシ親族は壊滅状態になり、オオヤマツミとカモサワヒメ夫妻は死亡し、ニニギは后コノハナサクヤヒメを自殺させて自分も衰弱死してしまいました。責任を感じたコトシロヌシとタカテルヒメ夫妻がその後を追いかけて自害してしまいます。

この事件によって富士高天原に都を置いていても、九州や四国を守ることができないので、富士高天原は天都として、九州の日向(ひむか)の高千穂を神都として、都を移動したのです。

その後の富士高天原にある富士王朝はツクヨミ命の系統であるオオヤマツミ命の子孫が継承します。九州の日向に移動してきたニニギの息子のホオリ命(別名:山幸彦)は、トヨタマヒメ命と結婚し、現在の大分県大分市佐賀関黒ヶ浜で息子を生みました。

その息子の名前がウガヤフキアエズ命です。そこからウガヤフキアエズ王朝が誕生し、宮下文書では51代続いたとされていて、ウエツフミや竹内文書では74代続いたとされています。

そもそもウガヤフキアエズ王朝の役割は、大陸から九州に攻めてくる海外の軍勢を監視することでした。

しかしウガヤフキアエズ王朝が長年九州にいてその地域を守っていたため、大陸からの海外の軍勢は紀伊半島から大和地方を攻めてくることになり、後の神武東征の舞台となるのでした。

なぜ神武天皇は東征したのか?

宮下文書でいうウガヤ朝の第51代のイツセ命の後と、ウエツフミでいうウガヤ朝の第73代が、カムヤマトイワレビコ命で、後の大和王権の初代天皇になる神武天皇のことを指しています。

そもそも神武東征の最初のきっかけは、紀元前後に巨大地震などにより天変地異が発生したため、九州は食料飢餓を向かえることになりました。

神武天皇は記紀では紀元前660年に天皇に即位したと記されています。ただし当時は天皇という言葉はなく大王(おおきみ)と呼ばれていました。

しかし第73世武内宿禰(たけのうちのすくね)こと故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏によると、神武天皇は西暦57年に橿原の宮で大王に即位したと言われています。

これなら紀元前後の巨大地震があった年とつじつまが合ってくるわけです。

そこでウエツフミで言う、ウガヤフキアエズ王朝の第71代とその息子のイツセ命(当時の皇子)が畿内に移動したのですが、大和で待ち構えていたナガスネヒコの軍勢と、大群で紀伊半島から渡来していた新羅(しらぎ)の軍勢との連合軍に、皇族側が攻められて、イツセ命が矢を放たれて死亡してしまいました。

そのことを聞いて驚いた皇族関係者が、各国のタケル(その地域の長、今でいう都道府県知事のようなもの)から軍勢を集結し強力な軍力を調えて、畿内へと向かいました。

それを指揮することになったのがカムヤマトイワレビコ命、後の神武天皇でした。

そこから始まる「暗黒の世」と言われる17年間、イワレビコの軍勢は奈良周辺から紀伊半島の広範囲にて渡来系勢力と交戦することになります。

イワレビコ側の陣営はハヤタマノヤマダ命(藤原氏物部氏系統)の軍勢と、ウマシマジ命(蘇我氏大伴氏系統)の軍勢でした。

最終的に、蘇我氏大伴氏系統のウマシマジ命が、敵陣をあざむいて、陣中に潜入して、ナガスネヒコを自殺に追い込みました。ただナガスネヒコは死んだという説と、そうではなく津軽に逃げたという説があるので、史実はわかりません。

そして長く続いたナガスネヒコ軍勢との戦争が終わり、カムヤマトイワレビコ命は西暦57年に大和の橿原の宮で大王に即位しました。

西暦57年に後漢に朝貢して後漢から漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)の金印を授かったのが初代天皇の神武天皇の可能性があります。

そして西暦107年に倭国から後漢に朝貢したのが師升(すいしょう)という人物であると後漢書に記されています。その人物はおそらく第3代目の安寧(あんねい)天皇ではないかと思います。

安寧天皇の本名が、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)といい師木津日子の師と師升の師が一致しています。

卑弥呼が生きていた時代の天皇は誰?卑弥呼はなぜ記紀の歴史に出てこなかったのか?

せっかく大和の地を手に入れた大和王権だったのですが、食料飢餓の時代はなかなか解決せずに、大和王権だけが米を大量に所持していることに対し、周りの国が反乱をおこし、4代目の懿徳(いとく)天皇の時代に、吉備王国(現在の岡山県)に大和を占領されてしまいます。

大和王権は再び大和の地を離れ、九州に戻ることになりました。第5代目の孝昭(こうしょう)天皇(140年即位)、第6代目の孝安(こうあん)天皇(157年即位)、第7代目の孝霊(こうれい)天皇(171年即位)、第8代目の孝元(こうげん)天皇(186年即位)と4人とも頭文字に孝がついている天皇は、すべて九州で即位した天皇です。

この時に中国の歴史書である三国志(さんごくし)・魏書(ぎしょ)・第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがんせんびとういでん )・倭人条(わじんのじょう)(通称、魏志倭人伝(ぎしわじんでん))で大和国のことを邪馬台国という当て字で記されてしまいます。

当時の日本は、魏志倭人伝に「倭国大乱」と記され、国同士の戦いがなかなか治まりませんでした。蝦夷(東北~関東)・吉備王国(岡山県)・出雲王国(島根県東部~鳥取県西部)・熊襲または隼人(鹿児島県)・大和国(鹿児島県以外の九州)などの国どうしがまとまっていませんでした。

そして西暦186年に第7代統治王の孝霊天皇が崩御し、皇子だった孝元天皇が第8代統治王となり、孝元天皇の妹の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)こと魏志倭人伝に登場した卑弥呼が第8代の祭祀王(さいしおう)になりました。

当時は統治王より祭祀王の方が身分が上だったので、天皇の上に卑弥呼がいた状態になっていました。だから魏からすると卑弥呼が女王に見えたのでしょう。

卑弥呼が女王になったことによって、倭国は大乱が治まり平和になったと、魏志倭人伝に記されています。

しかし実際には吉備王国との戦争があったようです。孝元天皇が本格的に吉備王国攻略に向けて動き出す前に、孝霊天皇の時代にも天皇の兄である大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)が軍事王として吉備王国と本格的に戦いました。名前からしてみても、吉備王国に諸に進み行くぞ!という意味が込められているようです。

その後、孝霊天皇の息子にも二人の吉備津彦が出てきます。その名前が大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)です。以上の三人が昔話で知られる桃太郎のモデルになります。伯父と甥二人の計三人を総称して桃太郎ということになります。

桃太郎に出てくるきび団子とは吉備王国を攻略したらもらえる領地のことを指しています。そしてきび団子に釣られて桃太郎に従った家来たちがいったい誰だったのかというと、犬=犬養氏の軍勢、猿=猿女氏の軍勢、雉=鳥取一族の軍勢になります。

戦ったとされる吉備の王(鬼)は温羅(うら)といい、温羅の牙城(鬼が島)は鬼みたいに強かったので誰も崩すことができませんでした。

そこで猿女氏が温羅を騙すために和睦を装って宴会を開きました。そして酔っ払った温羅が気を抜いている時に女装した猿女氏が踊りながら温羅に近づいて行って、隠して持っていた刀で切り殺しました。騙して温羅を切り殺したので、裏切るという言葉ができました。

統治王が第9代開花天皇の時代には、大和王権が再度大和の地を手に入れました。なので邪馬台国の卑弥呼は北部九州で祭祀王になり、後に大和に東遷したというのが正しい説になります。

つまり邪馬台国の場所は、九州でもあり、畿内でもあった、つまり両方とも正解だったということになります。

そして238年または239年に魏の王朝から、「親魏倭王印(しんぎわおういん)」を北部九州の地で授かり、晩年になってから大和の地へ行ったのではないかと考えています。

そして第8代孝元天皇、第9代開化天皇、第10代崇神天皇までの期間、ずっと卑弥呼が祭祀王になっていたわけです。卑弥呼は247年または248年に崩御しましたが、崇神天皇は卑弥呼が死んだ6~7年後の254年に崩御しました。

ただ卑弥呼の死は年齢的に老衰で亡くなったのか、それとも神の声を聞けなくなったため暗殺されたのかは未だに謎に包まれています。

そして卑弥呼のお墓は奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)でまず間違いないでしょう。記紀では倭迹迹日百襲姫命の墓となっています。

箸墓古墳は前方後円墳なので卑弥呼の墓ではないという説もあります。確かに魏志倭人伝に径百余歩とあることから、円墳の直径のことが記されています。

魏の1歩は5尺で1尺が約30cmなので、1歩で約1.5mになります。そうすると100歩で約150m、余歩を約10mとして計算するとだいたい160mの円墳になります。しかし卑弥呼の時期で直径が160mに該当する円墳は見つかっていません。

箸墓古墳を円墳として前方は後から作られたものだと考えてみるとどうでしょうか。後円部の直径はだいたい160mになります。そう考えると卑弥呼の墓にぴったり一致してしまうのです。

卑弥呼が死んだ後、再び男王になったのですが、再び倭国大乱になったと魏志倭人伝に記されています。

後に卑弥呼の宗女(血縁)である13歳の少女、台与(とよ)が女王になると再び倭国が平和になったと記されています。魏志倭人伝の台与とは記紀では第10代崇神天皇の娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)だと言われています。

台与が女王になった後に「空白の150年」という時期が訪れます。空白の150年とは西暦267年〜412年の間で、中国が戦乱のため日本のことまで見る余裕が中国になかった時代のことを指します。別名「空白の4世紀」とも言われています。その間に女性の祭祀王という存在は消えてしまっていました。

しかし卑弥呼の出来事も、記紀などの日本の正史と呼ばれる歴史の中では、完全に隠されてしまっています。なぜ隠されたのでしょうか?

女性の方が男性より上のポジションにいたという史実、日本が中国に貢いでいたという史実、おそらくこれらの史実は記紀を編纂した当時の藤原不比等にとって邪魔だったから抹消して歴史から隠されたのでしょう。

確かに日本が中国に貢いだということは、日本が中国の属国のような存在になってしまうので、中国と対等に向き合えなくなってしまいます。そういう意味では良かったのではないでしょうか。

歴史が隠されたのは卑弥呼や台与だけではありません。もっと時代の古い祭祀王であったであろう瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)やかぐや姫、大和王権より先に成立されていた富士高天原王朝やウガヤフキアエズ王朝なども隠された歴史の一つだと言えます。

そしてなんとなんと、日本で一番目立っている存在であるあの富士山のことも、記紀ではまったく一言も出てきません。完全に日本神話から無くそうとしていますが、ある意味日本人が誰でも知っている富士山だけに不自然です。やはり富士王朝を隠すために富士山には触れたくはなかったのでしょう。

いかがだったでしょうか?この記事では「日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!」について解説させていただきました。

それにしても古事記や日本書紀などの記紀が正史で、正統竹内文書や宮下文書、ウエツフミ、ホツマツタヱなどが偽書として取り扱われていますが、どっちが史実でどっちが偽書なのか?は、もっともっと深く研究をして、史実を暴いていくことも必要だと筆者は強く感じています。

古代史の魅力はどんなに研究を進めていっても、すべての史実が判明しないところ辺りが何かモヤモヤ感があるのですが、そこがまたロマンがあって面白いところではないでしょうか。あなたの歴史的な意見も、ぜひコメント欄などで聞かせていただけましたらとてもうれしい限りでございます。

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日本人の祖先は思いもよらない方法で大陸から日本列島へやって来た!

日本地図

前回の記事で我々の祖先の人類(ホモ・サピエンス)は歩いて日本列島に着いたと書いたのですが、実はそうではなかったのです。

前回の記事はこちらからどうぞ。

www.takabonblog.com

こんにちは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『日本人の祖先は思いもよらない方法で大陸から日本列島へやって来た!』について解説させていただきたいと思います。

日本人の祖先は約4万年前に九州にたどり着いた

前回の記事では約4万年前の地球上は氷河期だったため、海面が現在より145m低かったので、日本列島は大陸と繋がっていたと書きました。

しかし約4万年前の地球は、確かに氷河期ではあったはずなのですが、実は海面が現在より80m低いだけであったことが判明しているのです。

そうすると本州と四国・九州は地続きとなり1つの島を形成できているのですが、北海道や沖縄・アジア大陸とは、本州島(四国・九州含む)は海で隔てられていたのです。

そしてこの時代こそ、私たちの祖先である人類が、日本列島に到来・定着した時代なのです。

日本に人類が到達したのが約38,000年前と言う説がありますが、この年代は伊豆七島の神津島産の黒曜石(こくようせき)の遺跡が静岡で見つかったという日本最古の遺跡の年代のことです。

しかし人類が日本列島にたどり着いた地は九州あたりであり、九州からの広がりに要する年月を考えれば、むしろ約4万年前という表現の方が適切になります。

なお、その後数千年の年月がかかった北海道までの広がりがあったのは、約32,000年前あたりになります。ただし北海道のアイヌ民族先住説はありませんでした。

アイヌ民族は11世紀(平安時代末期)になってから、ようやく樺太やもっと北西にあるカムチャツカ半島などから来たオホーツク人(ウィルタ民族やオロチョン族など)が、北海道にやって来て縄文人と混血し、北海道の日本海沿岸から始まって、やがて北海道全土に広がりました。

アイヌ民族は13世紀(鎌倉時代)には、樺太にも進出しましたが、オホーツク人と対立するようになり、やがてモンゴル帝国・元との戦争になり、敗北することになります。

我々の祖先は約4万年前にどうやって海を渡って来たのか?

では約4万年前の人類はどうやって海の向こうから本州島(四国・九州含む)にたどり着いたのでしょうか?

約4万年前の旧石器時代の人類が、驚いたことに丸木舟で航海をして、日本列島の九州あたりにたどり着いたのです。

しかも航海した人類は男性だけではなく、女性も一緒に航海してきたということになります。男性だけで渡航したとしても、新たな地で子孫を繁栄することができないので、絶対に女性も一緒に渡航しないと現在の日本人は存在しません。

アジア大陸から海を渡る技術を養うのに、何年もの時間を費やして、ついにその技術を獲得できたというところでしょうか。石器を使用して大木を倒して、石器で舟形に彫って丸木舟を造っていったのでしょうね。

航海に失敗して命を失った人もいたかも知れませんが、そのような数知れぬ失敗を繰り返して、ついに成功を成し遂げたのでしょう。半端じゃないですよね。

当時の人類が航海をして、日本列島にたどり着く物語を映画にすれば、かなり面白いんじゃないかなと筆者は感じてしまいます。というかそんな映画ができたら絶対に映画館に見に行きますよ!

その映画の出演者は、身長が低くて足腰がしっかりしていて、顔のほりが深くてやや毛深い日本人がいいのかな?想像してみてください!いますよね?そんな人!実際にはメイクでごまかすと思いますが・・・。

人類の歴史

  • 約700万年前 アフリカで猿人が現れる
  • 約400万年前 アウストラロピテクス(猿人)の誕生
  • 約200万年前 ホモ・エレクトス(原人)が進化
  • 約60万年前 ハイデルベルク人(旧人)という新種が誕生
  • 約40万年前 ハイデルベルク人の一部がアフリカを出て3つに分かれた
    ❶中東からヨーロッパに到達してネアンデルタール人に進化
    ❷中東からアジアに到達してデニソワ人に進化
    ❸アフリカに残ったハイデルベルク人が進化し、35万~26万年前にホモ・サピエンス(新人)に進化
  • 約21万年前 初期のホモ・サピエンスは中東を経てヨーロッパに拡散したが、ネアンデルタール人などとの生存競争に敗れたため滅びている(ギリシャで21万年前のホモ・サピエンスの遺骨と17万年前のネアンデルタール人の遺骨が見つかった)
  • 約17万7,000年前 ホモ・サピエンスは再度アフリカ大陸から拡散を開始
  • 13万~11万5,000年前 イスラエル・レバノン・トルコを経て再びヨーロッパに到達
  • 12万5,000年前 中国に到達したホモ・サピエンスの集団がいた可能性もあるが、現在の人類のDNAに影響していないので、おそらく絶滅
  • 約8万年前 早期にアフリカを出たホモ・サピエンスはおそらく全滅
  • 約7万年前 ホモ・サピエンスは再々度アフリカ大陸から拡散を開始し、中東に到達し、その後インドまで到達する
  • 約6万7,000年前 当時はアジア大陸と地続きだった東南アジアに到達(フィリピンで6万7,000年前のアジア最古のホモ・サピエンス、カヤオ人の人骨が出土)
  • 約6万5,000年前 人類史上初めての丸木舟での航海をしてオーストラリアに到達(アボリジニの祖先)
  • 約4万5,000年前 ヨーロッパや中央アジアに到達(徐々に北上が開始される)
  • 約4万年前 アジア大陸から丸木舟で航海をして日本列島に到達(縄文人の祖先)
  • 約3万8,000年前 本州と伊豆諸島への往復航海に成功(静岡で伊豆諸島産の黒曜石の遺跡が出土、現在日本最古の遺跡である)
  • 約3万5,000年前 台湾から与那国島などの沖縄諸島に到達
  • 約3万3,000年前 シベリアに到達(ついに氷雪の世界まで北上)
  • 約3万2,000年前 本州から北海道に到達(日本でも北上)
  • 約2万5,000年前 大陸からも樺太を経て北海道に到達
  • 約2万3,000年前 シベリアからアメリカ大陸北西部に到達
  • 約1万6,000年前 アメリカ・メキシコあたりに到達
  • 約1万4,000年前 南米のチリやアルゼンチンに到達
  • 約5,000年前 日本から中国南部へ水田稲作と漁労を伝える
  • 約4,500年前頃から台湾からフィリピン・インドネシアを経て南方の海へ移動し始め、多数の小さい島国に移り住んでいく(ポリネシア人の祖先)
  • 約3,100年前 ポリネシア人がフィジー島に到達
  • 約2,500年前頃からポリネシア人は、カヌーを利用してエリス諸島やマルキーズ諸島、タヒチ島のあるソシエテ諸島あたりまで移り住んでいく
  • 約1,800年前 赤道より南の諸島からポリネシア人が北上し、ハワイ島最南端に到達
  • 約1,300年前 東ポリネシア人がニュージーランドに到達(マオリ人の祖先)

なお人類の歴史は現在も急ピッチで科学的に研究されているので、その都度内容もどんどんと変化されていくものだと思われるのでご注意ください。

まとめ

こちらの記事では『日本人の祖先は思いもよらない方法で大陸から日本列島へやって来た!』について解説させていただきました。

結論的には、日本人の祖先は、約4万年前に、丸木舟を利用して海を渡り、九州あたりに到着したということになります。

それにしてもこんなに太古の時代にそんな技術があったという事実は、ほんとうにビックリしますよね。

現代人がボートを漕いでアジア大陸まで行けと言われても、行けるわけがないやん!と思ってしまいます。

人って昔からどうしても成し遂げたいことに熱中して、いつかは実現させるパワーがあるのですね。恐れ入りました!

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【DNA】縄文人と弥生人による古代史は、DNAによって解明されている?アイヌ民族先住説はウソ?

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『【DNA】縄文人と弥生人による古代史は、DNAによって解明されている?アイヌ民族先住説はウソ?』について解説させていただきたいと思います。

日本人はどこから来たのか?

人の種類の歴史は生物学的にいうと、猿人・原人・旧人・ホモサピエンス(新人)があります。現在は全人類がホモサピエンスという種類になっています。

昔は発掘した人骨で人の歴史を判断していましたが、それはかなりいい加減な判断になっていました。しかし1980年代にDNAの鑑定ができるようになってから、そのすべてがDNAの鑑定で解明できるようになりました。

約20万年前のネアンデルタール人がまだ生息していた時期に、ホモサピエンスはアフリカの地で現れます。ネアンデルタール人はホモサピエンスよりも体が大きかったのですが、すでに全滅しています。

しかし現在の我々人類のDNAには、98%がホモサピエンスのDNAで、残りの2%が種類の違う動物であるはずのネアンデルタール人のDNAが含まれています。つまり混血なのです。実に不思議なことに・・・。

そして我々人類は約5万年前にアフリカ大陸から世界へ飛び出して旅に出ました。ヨーロッパ地方や中東に出て顔のほりが深くなった人類のことを「コーカソイド」と呼び、東アジア地方に出てほりが浅くなった人類のことを「モンゴロイド」と呼んでいます。

アフリカ大陸を出たホモサピエンスが、我々が暮らしている日本列島にも渡ってきたということなのですが、この当時の地球は氷河期だったので海面が現在より約140mも低かったのです。なので日本列島は島国ではなくユーラシア大陸の一部になっていたのです。そして日本海は大きな湖だったのです。

だから人々は歩いて日本列島に入ってきたということになります。北方からマンモスやヘラジカなどの獲物をを追いかけて日本列島に入り込んできた人たちと、南方からナウマンゾウやオオツノジカなどの獲物を追いかけて日本列島に入り込んできた人たちがいたのです。

人々が日本列島に入り込んだのが、今からだいたい約38,000年前になります。当時の石器の遺跡がでてきたので間違いないでしょう。この時期は旧石器時代です。そしてやがて地球の温暖化が進み、北極や南極の氷が溶けてくると海水面がどんどんと上昇していき、日本列島は大陸から海に孤立した島国になってしまいます。

その時に日本列島に取り残された民族が、縄文人の祖先である日本の先住民だったということになります。

縄文時代は少なくとも約10,000年以上続くわけなのですが、学校で習ったのは縄文時代は狩猟採集民で、農業が始まったのは弥生時代からと習いました。しかし農業は縄文時代からすでに行われていました。

縄文時代の農業は畑作で、水田稲作が始まったのが弥生時代からだったという方が、正しい言い方かも知れませんね。縄文時代に作っていた農作物は、クリとかドングリなどの木の実を作っていました。

発掘された木の実が、野生の木の実か、栽培した木の実かが、どうしてわかるのかということなのですが、これもDNAでわかるようなのです。DNAがバラバラであれば野生の木の実で、DNAが同じものに揃えられていたら栽培したものになります。

アイヌ民族先住説はウソ?

縄文時代から弥生時代に移っていく時代の背景が、日本の歴史上で一番不可解だと感じる人が多いかと思います。

歴史の授業で習った方も多いと思いますが、縄文人と弥生人とは異なる民族であったことがわかっています。

ご存じの通りだと思いますが、縄文人は弥生人より背が低く、骨ががっちりしていて、顔のほりが深く、二重まぶたで毛深いです。逆に弥生人は縄文人より背が高く、骨が細く、顔のほりが浅く、一重まぶたで体毛が薄いです。

弥生人はいったいいつの時代にどこからやって来たのでしょうか?

縄文時代から弥生時代に移っていった理由は何なのか?を考えてみたいと思います。

3つの説があるのですが、それは下記の3つです。

  1. 征服説
  2. 変形説
  3. 混血説

1.征服説

1つめの征服説は、縄文時代に渡来系の弥生人がどんどんとやってきて、戦争をして住んでいた縄文人を追いやっていったという説です。

2.変形説

2つめの変形説は、硬い木の実を食べて動物の狩りをしていると、あごの骨が発達して骨もがっちりしてきますが、柔らかい米を主食にすると、あごがスラっとなり、骨組みもスラっとなって徐々に変形してきたという説です。

3.混血説

3つめの混血説は、縄文人と弥生人の混血が生まれて混ざり合って来たという説です。

DNAでの鑑定によると、混血説が正しかったようです。

東アジアの人々は、「北東アジア人(現在の中国人はここに含まれます)」と「南東アジア人」と「縄文人」の3種類に分けられるようです。

国立遺伝学研究所によると、日本人のDNAは上記の3種類のDNAが3重構造になっていることが判明しているそうです。

それでは、いつごろから、どこの国の人々が渡来してきたのでしょうか?朝鮮半島から渡来したという説はウソだったのです。

それは今から約5,000年前の縄文時代から徐々に渡来は始まっていたのです。場所は中国の南東部である長江文明(黄河文明より1,000年以上古い文明)の人々と米です。現在の上海や南京のあたりです。

これはDNA鑑定でわかっていることなのですが、約5,000年前の人骨のDNAと、その当時の米のDNAがピッタリ当てはまっているそうです。

弥生時代に福岡県や山口県には渡来系弥生人がたくさんいたわけですが、水田稲作を受け入れた縄文人が次第に増えていき、九州から東北まで水田稲作は広まるのですが、北海道と沖縄には広まりませんでした。

その当時のお米は北海道の寒冷地帯では作れなかったのです。そして沖縄のサンゴ礁の多い砂地でもお米はできにくいという立地条件がありました。

ですので北海道と沖縄では長い間、純粋な縄文人のままでした。ただし奈良時代や平安時代の北海道では、アイヌ民族もまだいませんでした。

これもDNAで判明しているのですが、アイヌ民族は鎌倉時代に、樺太やもっと北にあるカムチャツカ半島などから来たオホーツク人(ウィルタ民族やオロチョン族など)が、北海道にやって来て縄文人との混血がアイヌ民族になったわけです。なのでアイヌ民族先住説はウソだということが判明しています。

DNAで自分の祖先がわかる!

DNAは細胞の中のミトコンドリアから女系のルーツが判明します。そして細胞の核の中にある染色体で、女性の染色体はXXであるのに対して、男性の染色体はXYになります。つまりY染色体は男性にしかないので、このY染色体をたどっていくと男系のルーツがわかります。

このDNAを探っていくとその人の何十代前のルーツまで判明してしまうのです。東アジア人の女系のルーツはだいたい同じDNAが多いのに対して、東アジアの男系のルーツはバラバラに入り乱れています。

それはなぜかというと、男は旅をするからだと言われています。山に狩りに行ったり海で航海をしたり戦争に行きます。男が移動して移動先の女性に子供を産ませるのです。

特に戦争が大きな原因だったと思います。何千年もの間、敵の部族の男を殺して、女を奪って妻にするってことが当然のように行われていました。

ということは、戦争に強い征服者のDNAが、征服された国々の女性にバラまかれるわけなのです。

恐ろしいことに、北中国から中央アジア・中東にかけて約1,600万人が同じY染色体を持っているのです。ということは、ある人物のY染色体がバラまかれたということです。

これはいったい誰のY染色体なのでしょうか?実はこれが当時の世界人口の半数以上を統治するに到る、人類史上最大規模の世界帝国を作り上げたモンゴル帝国の初代皇帝の「チンギス・ハーン」のY染色体だったのです。

このチンギス・ハーンとその一族は、戦略しまくって男を殺しまくって、女を自分のものにしまくった結果が、その遺伝子が世の中にバラまかれて、今現在、約1,600万人がチンギス・ハーンの血を引いているという恐ろしい話なのです。

もう一つの例が、南米のペルーの先住民のY染色体の、95%がヨーロッパ人のY染色体でした。ペルーという国はかつてのインカ帝国です。

そこにインカ帝国を征服したことで有名なスペインの軍人「フランシスコ・ピサロ」を率いる軍勢が、男を殺しまくり女を奪い子供をつくりまくったのでした。

ですからY染色体というのは、過去の戦争や暴力などの痕跡を留めています。

ということは日本人のY染色体を調べたら、日本人がどこの国に占領されたとかの結果が出てきます。

日本人のY染色体の約半分が縄文人になっています。関西・中国・四国・九州の人は縄文人のY染色体が少なめで、北海道や沖縄がかなり縄文人のY染色体が多めになります。

日本人の約4割程度が南中国のY染色体で、残りの約1割程度が北中国のY染色体になっています。先ほども言ったように、渡来系弥生人は南中国人が征服したわけではなく、移民なので戦争しないでうまく混ざることができたのです。

というわけで日本人は他の国に征服されたことがないということがご理解していただけると思います。

日本列島では、縄文人と弥生人は、なんと約3,500年もの間、別々に暮らしていたらしいのです。

どういうことかというと、長江文明の民族は、水田稲作をしたり海や大河などへ船で漁労をする海人だったので、弥生人は平地や沿岸に暮らしていたと想像されます。

一方、日本列島の先住民である縄文人は、山で木を栽培して、木の実を採集したり、イノシシやシカなどの狩りをする、狩猟採集民だったので山に暮らしていたと考えられます。縄文人と弥生人は、住む場所もそれぞれ違っていたわけなのですね。

日本列島はそれだけ平和な場所だったわけです。ひょっとしたら、縄文人と弥生人が村で会えば「獲物を捕ってきたから食わないか?」「じゃあ米を持って行けよ」などという会話があったのかも知れませんね。日本はのどかだったのですね。

縄文人と弥生人の混血のDNAが見つかったのは、5世紀ころの古墳時代になってからだそうで、ずいぶんと後の話なのです。

中国のY染色体を調べてみると北中国のY染色体が圧倒的に多いようです。そして中国やその周りの国々には縄文人のY染色体はほぼ見られないのです。

そして面白いことに、日本人と同じようなDNAを持っているのは、チベット高原の人々なのです。実に驚愕ですよね。あんなに遠い場所に縄文人のY染色体が半分弱あるのですよ。

そう考えると、もともとはアジア全体に日本人と同じような縄文DNAを持った人々がいたと考えてもおかしくはありません。

そして騎馬民族などに何度も滅ぼされた中国やモンゴル・朝鮮半島の国々では、日本人と同じようなDNAの人々がいなくなりました。

そして中華帝国が攻め込めなかったのが、海の向こうの日本と標高が3,000m以上のチベット高原だったと考えたらいいわけです。

だから日本とチベット高原は、アフリカを出てそのまま繋がってるような古いDNAを保っているということで、これは世界遺産レベルと言っても過言ではありません。

日本はたまたま島国であったことが、歴史的に見て、ものすごくラッキーだったわけなのです。

島国だったから大陸の方から攻め込まれませんでした。大陸の方から攻め込まれなかったから民族交代も起こりませんでした。民族交代が起こらなかったから王朝交代も起こらなかったのです。

ユーラシア大陸の他の国々は、ほとんどの国が王朝交代をしています。そのたびに戦争を起こして殺戮を行ってきました。

まとめ

この記事では『【DNA】縄文人と弥生人による古代史は、DNAによって解明されている?アイヌ民族先住説はウソ?』について解説させていただきました。

日本の先住民である縄文人は、今から約38,000年前にアフリカから歩いて日本列島にやって来ました。その当時は氷河期で海水が今より約140m低かったため、日本列島は島国ではなくユーラシア大陸の一部でした。だから歩いて来ることが可能だったのです。

現在の日本人のDNAは、だいたい半分が縄文人で、約4割が南中国、約1割が北中国でした。ということで、朝鮮半島からの渡来説はウソでした。

そして北海道はアイヌ民族が先住民だという説もウソで、鎌倉時代になって初めて樺太やカムチャツカ半島などから北海道に移民したオホーツク人(ウィルタ民族やオロチョン族など)と縄文人との混血によってできた民族がアイヌ民族だったのです。

ユーラシア大陸のほとんどの国々は戦争が原因で、民族の交代や王朝の交代が繰り返し起こりました。

日本は島国だったために、大陸から攻め込まれず、民族の交代も王朝の交代もなかったことは、非常にラッキーだったと言えます。

最後までお読みいただきありがとうございました。
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【卑弥呼】が住んでいた「邪馬台国」と、魏志倭人伝で記されている「女王国」は別物なのか?歴史書から紐解く

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『【卑弥呼】が住んでいた「邪馬台国」と、魏志倭人伝で記されている「女王国」は別物なのか?歴史書から紐解く』について解説させていただきたいと思います。

邪馬台国と女王国は別物

筆者は最近まで邪馬台国=女王国なのだという認識をしていました。しかし最近思うには、卑弥呼が住んでいた邪馬台国=魏志倭人伝の中に出てくる女王国ではないのでは?と思ってしまいます。どういうことかというと、女王国は邪馬台国のことだけを指しているわけではないのではということです。

それでは魏志倭人伝に出てくる女王国とは、いったいどこの国のことを指しているでしょうか?その答えは倭国です。30の小国が連合された邪馬台国を含めた倭国連合のことを指していると思うのです。

2つある中国から授かった金印でわかる

どうして邪馬台国=女王国ではないと思ったかというと、中国から授かった金印の種類の違いが気になったからです。

弥生時代後期に中国から授かった金印には、下記の2つがあります。

  1. 漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印
  2. 親魏倭王(しんぎわおう)の金印

まず、1の漢倭奴国王の金印は、西暦57年に後漢(中国)から、倭国の中にある数多くの小国の中の1つである奴国の国王に向けて授けられた金印のことです。奴国という小国の国王なので、倭国全体の国王ではありません。

一方、2の親魏倭王の金印とは、西暦239年に魏(中国)から、倭国全体の国王に授けられた金印になります。受け取ったのは倭国の代表であった、邪馬台国に住んでいた卑弥呼でした。

倭国は卑弥呼の当時、約30の小国が連合された連合国になっていて、それぞれの小国に国王がいたと考えられます。その国王たちの代表が邪馬台国の卑弥呼であったということです。

卑弥呼が倭国の国王になる前は、男王が倭国の代表の国王になっていましたが、倭国の中で争いが絶えませんでした。しかし女性である卑弥呼を国王の代表にした途端に争いが収まりました。

卑弥呼が倭国の代表の女王だとすると、魏志倭人伝に出てくる「女王国」とは、卑弥呼が住んでいた邪馬台国だけのことを指しているのではなく、倭国連合全体のことを指しているのだと考えられます。

倭国連合は28国?投馬国は天皇の聖地では?

倭国の30の小国には、對馬国(つしまこく)・一大国(いきこく)・末廬国(まつらこく)・伊都国(いとこく)・奴国(なこく)・不弥国(ふみこく)・投馬国(つまこく)・邪馬台国(やまたいこく)・狗奴国(くなこく)の9国と他小国が21国あったと考えています。

筆者は30国のうち28国が倭国連合で、その代表の女王が卑弥呼だったのではないかと思っています。

倭国の中で狗奴国(熊襲)だけは、邪馬台国の敵国であったということは、有名なことですよね。

それともう一つが投馬国です。投馬国が宮崎県西都市妻(つま)だったと仮定した場合に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や神武天皇の聖地にあたります。

それに投馬国という大国だけは、倭国連合や狗奴国(熊襲)の文化である、男子の顔面や体に入れ墨をする文化がなかったとされています。

その証拠に、入れ墨を入れた絵や黥面土偶(げいめんどぐう)が発掘されている場所は全国に多々あるのですが、宮崎県と奈良県からは一切発掘されていないのです。

これは邪馬台国と大和王権がちがう国だったという大きな証拠でもあります。他にも奴国や倭国連合から中国に生口(奴隷)を送ったことが歴史に残っていますが、大和王権から中国に生口(奴隷)を送った史実は見つかっていません。

ということは大和王権が作った日本国と、弥生時代の倭国連合も切り離して考えた方がいいような気がします。

まとめ

この記事では『【卑弥呼】が住んでいた「邪馬台国」と、魏志倭人伝で記されている「女王国」は別物なのか?歴史書から紐解く』について解説させていただきました。

  1. 卑弥呼が住んでいた邪馬台国と、魏志倭人伝で記されている女王国は同一視しない方がいいのではないかと思います。
  2. 卑弥呼は邪馬台国だけの女王ではなく、倭国連合全体の代表の女王として魏志倭人伝に記されている(親魏倭王)
  3. 倭国30国のうち、倭国連合は28国であり、狗奴国(熊襲)は倭国連合の敵国で、投馬国は大和王権の聖地ではないかと思います。また大和王権が作った日本国と弥生時代の倭国連合も切り離して考えた方がいいような気がします。

いかがだったでしょうか?もちろんこの説がすべて正しいとは限りませんが、結構いい線をついているのではないかと思っています。

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雑記ブログ(2021年9月9日17:00より)

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【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?

吉野ヶ里遺跡

日本史で最大のミステリーと言われている邪馬台国の女王である卑弥呼の歴史とはいったいどうなっていたのでしょう。

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?』について解説させていただきたいと思います。

女王国とは北部九州全域の「倭国連合」だった!

女王国とは小国の邪馬台国を含めた北部九州全域の「倭国(あるいは邪馬台国)連合」のことで、30国(對馬国・一大国・末廬国・伊都国・奴国・不弥国・他)の小国が連合して成り立った連合国だったのではないかと思われます。

邪馬台国の「邪馬台」は、「やまと」という発音を、魏(中国)が「邪馬台」という当て字にしたもので、福岡県の「柳川市」や「みやま市」のあたりは、もともと旧の「山門(やまと)郡」だったことから、当時の「やまと」のなごりで山門郡の地名が残ったのかと推測しています。

但し大和王朝とはまったく別の国です。詳しくは「4つのポイントでわかる!邪馬台国は大和王朝の前進国だったのか?それとも邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったのか?」をご参照ください。

しかし邪馬台国の場所は、江戸時代からずっと、大きく分けて、九州説と畿内説という2つの説が、未だに決着していない古代ミステリー最大の謎となっています。

歴史家などの専門家が、よくあれだけいろいろなことを好き勝手に言えるものだなと筆者は感心してしまいます。歴史家が歴史書を無視して説を創るんですからね。

まず邪馬台国やその女王であった卑弥呼の時代には、日本ではまだ文字が存在しなかったのです。そのために日本の歴史書である古事記や日本書紀には、邪馬台国や卑弥呼の名前は一切記されていません。

ではなぜ邪馬台国という場所があったことや、女王の卑弥呼が実際にいたことがわかったのでしょうか。それは中国の三国時代(魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく))の歴史書に記されていたからです。

三国時代の歴史書である『三国志』の中の、魏の歴史書である「魏書」というものがありました。その中の第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(うがんせんびとういでん わじんのじょう)というところがありました。

通称「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と言います。その中で、倭人(日本人)のことが詳しく記されていました。

畿内説はありえない

魏志倭人伝では、朝鮮半島から邪馬台国への行程が記されています。

  • 帯方郡(たいほうぐん 現在のソウル付近)から水行七千余里で狗奴韓国(くなかんこく 朝鮮半島南部)到着
  • 狗奴韓国から水行千余里で對馬国(つしまこく 対馬 千余戸)到着
  • 對馬国から水行千余里で一大国(いきこく 壱岐 三千余戸)到着
  • 一大国から水行千余里で北九州に上陸した地点が末廬国(まつらこく、旧の松浦郡で現在の佐賀県唐津市付近 四千余戸)到着
  • 末廬国から五百余里で伊都国(いとこく 糸島市 一万余戸)到着
  • 伊都国から百余里で奴国(なこく 福岡市から春日市一帯 二万余戸)到着
  • 奴国から百余里で不弥国(ふみこく 糟屋郡宇美町 千余戸)到着
  • 南へ水行20日で投馬国(つまこく 宮崎平野全域 五万余戸)到着
  • 南へ水行10日・陸行1月で邪馬台国(やまたいこく 所在不明 七万余戸)到着
  • 帯方郡から女王国まで一万ニ千余里

不弥国までの個々の行程は、距離で記されていたのですが、投馬国や邪馬台国に行く行程は、なんと日数で記されています。正にこの文章が九州説や畿内説という論争が始まった原因なんですよね。

実は上の帯方郡から邪馬台国までの行程の記され方が、1点だけおかしいような気がするのです。

不弥国までの行程の後に投馬国への行程が記されていて、その後に邪馬台国への行程が記されていることで、帯方郡から邪馬台国までの連続した全行程と見なされてしまい勝ちです。

もし投馬国が宮崎県の都萬(つま)神社がある宮崎県西都市(さいとし)妻(つま)という地名のもとの国であった場合、投馬国は宮崎県ということになります。それなら邪馬台国までの行程の間に投馬国までの行程が入ってくるのは不自然だと感じます。

そこで日数で記されている投馬国までの行程と、邪馬台国までの行程を、切り離して考えてみるとどうなるのでしょうか?

投馬国までの南へ水行20日というところは、不弥国からではなくて、帯方郡から投馬国までの直接の水行の距離のことを記しているとするのです。

そして邪馬台国までの南へ水行10日に関しても、投馬国からではなくて、帯方郡から船で狗奴韓国・對馬国・一大国を経て末廬国に到着した距離の一万里が、水行10日のことを言っているとなります。

さらに南へ陸行1月に関しても、帯方郡から女王の国までのトータルの行程が一万二千余里と記されているので、末廬国から伊都国・奴国・不弥国を経て邪馬台国に到着する距離の残り二千里が、陸行1月のことを記しているのす。そう考えるとつじつまが合ってスッキリとしますよね。

そして魏志倭人伝の中で「伊都国に一大率を置いて、邪馬台国の北の諸国を点検・観察させていた。」と記されている以上、邪馬台国の所在地は九州説で確定になります。

だって福岡県糸島市に一大率を置いて、奈良県の北にある京都府や滋賀県・福井県などを点検して観察するなんて、実際のところありえない話ですよね。なので畿内説はないということです。

卑弥呼はいったいどこに暮らしていたのでしょう

筑紫平野という広大な土地の中にいくつかの小国が連合して成り立った国がヤマト連合国だと前述しました。ではその広大な筑紫平野の中で、女王の卑弥呼が暮らしていた場所とはいったいどこだったのでしょうか。

卑弥呼が定住していた場所は、氾濫を繰り返す筑後川付近ではないかと思っています。その筑後川の下流は氾濫が多かったため、女王が定住するにはあまりにもリスクが大きすぎると思うので、それはないと思います。

筑後川の下流域には水田稲作をやっていた農民たちが暮らしていたと考えます。そしてその筑後川の上流で、川の氾濫などを左右させているような立場にいたのが、女王の卑弥呼だったのではないでしょうか。

というわけで卑弥呼が暮らしていたのは筑後川の上流部だと推測できます。そしてその場所はズバリ!福岡県朝倉市平塚にある平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)だと筆者は考えています。

まとめ

この記事では『【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?』について解説させていただきました。

  • 邪馬台国は福岡県から佐賀県にかけての筑紫平野全域で、いくつかの小国から成り立ったヤマト連合国だった
  • 魏志倭人伝の中で「伊都国に一大率を置いて、邪馬台国の北の諸国を点検・観察させていた。」と記されている以上、邪馬台国の所在地は北部九州で確定
  • 卑弥呼が暮らしていたのは筑後川の上流である

これが合っているかどうかはタイムマシンでその時代に行ってみないと証明はできませんが、かなりいい線をついていると思いますよ。

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4つのポイントでわかる!邪馬台国は大和王朝の前進国だったのか?それとも邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったのか?

仁徳天皇陵

邪馬台国と大和王朝はいったいどんな関係だったのでしょうか。邪馬台国が大和王朝の前進国だったという説がどうして出たかというと、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と卑弥呼(ひみこ)に多数の共通した事績があるからではないでしょうか。

天照大御神と卑弥呼の10個の共通点

  1. 女性である
  2. 宗教的権威がある
  3. 夫がいない
  4. 弟がいる
  5. 女王の言葉を伝えるために出入りしていた男と高木神(たかぎのかみ)が符号
  6. 古事記に出てくる「倭」の文字と卑弥呼は倭の女王であることが関連
  7. 大和王朝の「やまと」と邪馬台国の「やまたい」の音が類似
  8. 卑弥呼の宗女・台与(とよ)にあたる人物を、日本の史料にも確認できる
  9. 卑弥呼死後の争乱と思われる記述が古事記にある
  10. 天照大御神の岩戸隠れで世の中が真っ暗になったことと、卑弥呼が没した前後の247年と248年に中国で皆既日食があったことが類似

などです。

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

今回は『4つのポイントでわかる!邪馬台国は大和王朝の前進国だったのか?それとも邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったのか?』について解説させていただきたいと思います。

邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だった

筆者にしてみると、天照大御神と卑弥呼の事績が類似しているため、邪馬台国が大和王朝の前進国で、天照大御神と卑弥呼が同一人物だったという説が、ロマンがあって望ましいのですが、どう考えても無理があるような気がしています。

邪馬台国の場所は北部九州説が強く、大和王朝はというと、古事記や日本書紀に出てくる日本神話では、神武天皇(じんむてんのう)は宮崎県にある日向(ひむか、現在の日向市(ひゅうがし))から海路で大和(奈良県)へ向けて出発しました。

ということは、邪馬台国の場所は北部九州で、神武天皇は宮崎県にいたということになります。この位置関係から考えてみると、邪馬台国と大和王朝の前進はまったく別の国だったのではないでしょうか。

では、邪馬台国と大和王朝がまったく別の国だったという理由は、他にもあるのでしょうか。その理由は4つあります。次項ではその4つの理由について解説させていただきます。

邪馬台国と大和王朝がまったく別の国だった4つの理由

1.地理的に場所が違う

前述したように邪馬台国の場所は、北部九州の筑紫平野一帯の広大な土地が最有力で、神武天皇がいたであろう場所は、宮崎県の日向(ひむか、現在の日向市)です。そして日向から海路で大和(奈良)に向かったとされています。

先ほどにも述べましたが、筑紫平野と日向では地理的に考えても場所がまったく違うということが第一の理由です。

2.時代が違う

そして西暦554年以前までの日本が春秋歴(春から秋で1年、秋から春でまた1年)を使っていました。要するに1年で2年だと計算されていました。

なので神武天皇の即位の時期が紀元前660年の説は間違っていて、もう少し後の時代になると思います。

ただ、後の時代になるとしても、昔の大阪の地形学から考えてみると、難波𥔎(なにわのみさき)から川をさかのぼって白肩津(しらかたのつ)に船で行けるのは、紀元前1,050年から紀元前50年までの河内潟の時代で、これは炭素14年代法によって確定しています。

ちなみに紀元前1,050年以前の大阪平野は河内湾になっていて、紀元前50年以降の大阪平野は河内湖になっていました。

なので少なくとも紀元前50年よりは前の時代であったことは間違いがなさそうです。

卑弥呼が魏に使いを送ったのが西暦239年なので、時期的に見ても神武天皇の即位の方が、少なくとも300年は昔の話なのです。

要するに時代的にまったく合わないことが第二の理由です。

それなのに当時の天皇の即位の平均が約9~10年前後だったという計算で、神武天皇の即位が、おおむね西暦280~290年頃であるという仮説をたてている古代史研究家もいるのです。しかしその根拠はヨーロッパや中国の国王の即位の年数に合わせているだけなのです。

確かにそれだと天照大御神は神武天皇の5代前ですので、約50年前の西暦230~240年頃に活躍した卑弥呼の年代とは合ってきます。しかし天皇の即位の年代を、年代論だけで片付けてしまっていいのか?という疑問が残ります。

3.奴隷の有無

そして邪馬台国の特徴として卑弥呼が行ったことの1つに、魏の皇帝に奴隷を送ったということが魏志倭人伝に記されています。ということは、女王の国では奴隷を使用していたことになります。要するに、卑弥呼は今でいう人種差別をしていた女王ということになるのです。

これは邪馬台国だけに限らず、西暦57年の奴国でも魏の皇帝に奴隷を送ったということが、後漢の史実に記されています。

一方、大和王朝では奴隷を魏の皇帝に送るような史実は、どの歴史書を見ても記されていません。それどころか奴隷を使ったこと自体が史実に出てきていません。

これは明らかに邪馬台国と大和王朝が違う国である証拠になると思います。なので奴隷を使っていたか使っていなかったかの違いが第三の理由です。

4.入れ墨の有無

そして後漢書や魏志倭人伝によると「倭の男子は、成人・子どもの区別なく、みんな顔面や体に入れ墨をしている。」と記されています。

縄文時代から倭の国の男子はあちこちで入れ墨を入れる習慣があったようです。それは海洋民族だった縄文人が海で亡くなっても誰なのかを判明できるようにしていたから入れ墨を入れていたのです。

入れ墨を入れた絵や黥面土偶(げいめんどぐう)が発掘されている場所は、全国に多々あるのですが、不思議なことに、宮崎県と奈良県からは一切発掘されていないのです。

どういうことかというと、神武天皇の発祥の地である日向(宮崎県)と、神武東征で訪れた新たな地の大和(奈良県)には入れ墨をする文化がなかったのだろうと推測できるということです。

このことからも入れ墨を入れた男子がいる邪馬台国と、入れ墨を入れる文化がない大和王朝はまったく別の国だと言えるのではないでしょうか。その入れ墨の文化の違いが第四の理由なのです。

神武天皇はどうして大和に移ったのか?

縄文文明から農耕定住型の弥生文明に、つまり水田稲作に移行したのですが、神武天皇の時代は水田稲作に移行した後です。水田稲作に移行すると生産性が向上して人口が増加しました。

そもそも神武天皇たちが別の土地を目指した理由は、生産性が向上して人口が増えすぎてしまって、日向の土地だけでは人を養いきれなくなったのではないかと思われます。

しかし水田稲作の文明というのは、いくつもの弱点があります。1つは木材エネルギーです。要するに人口が増えると木が切られていくということです。

ちなみに世界の四大文明の、メソポタミア(イラク)文明・エジプト文明・インダス(インド)文明・黄河(中国)文明の4つの文明というものは、農耕定住型文明でした。

すると人口が増えていき、エネルギーが必要になります。なぜかというと人間というのは、穀物を煮炊きしなければ食べられないように進化してしまっているからなのです。

ということで木を切っていきます。つまり人間は、木を切らないと生きていけないのです。今は木を切らなくても火をおこせますが、当時は木を切らないと火をおこせませんでした。

ということで人口が増えていくと、ひたすら木を切っていき、さらにメソポタミアなどでは、その場所で家畜を飼って畜産物から動物性タンパク質を摂ろうとします。その結果、家畜が木の実や草の芽とかを食べてしまい、だんだんと荒地になり、最後には砂漠になってしまったわけです。

そして水田稲作の最大の弱点は、木材や水資源が必要になるため、土地の奪い合いで軍隊を率いて戦争になってしまうことです。世界四大文明は砂漠化と戦争で滅びたといっても過言ではないでしょう。

神武天皇たちが目指した奈良盆地というのは、周囲を森で囲まれていて、山々とたくさんの森があり、すばらしい土地だったのです。

ちなみに日本は畜産をしなかったのでメソポタミアや黄河のように、家畜が木の実や草の芽を食べていってしまうなんてことはありませんが、毎日の煮炊きで膨大な木材が必要になります。

水田稲作なのだからもちろん水資源も必要になります。川、あるいは湖が必要です。さらに日本人は、家畜を飼わなかった代わりに、動物性タンパク質を魚や貝などの海産物から摂りました。

そして奈良盆地は見事にすべてを満たしていました。周囲が森林で囲まれており、真ん中に奈良湖があり河川もありました。あと生駒山の向こうが大阪平野なのですが、紀元前の当時は大阪平野はなく海だったのです。

しかも盆地ということで、海に行きたかったら生駒山を超えるだけで海が広まっていました。すべての条件を満たす最高の土地だったのです。

人口が増えすぎて日向の土地だけでは養いきれない人を養うために、神武天皇は大和の地(奈良県)を選択したのです。

まとめ

この記事では『4つのポイントでわかる!邪馬台国は大和王朝の前進国だったのか?それとも邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったのか?』について解説させていただきました。

結論としましては、邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったということです。その理由は下記の4つです。

  1. 地理的には、邪馬台国の場所は北部九州で、神武天皇は日向(宮崎県)にいた。
  2. 時代的には、神武天皇が橿原で天皇に即位したのは、紀元前50年以前の話なのですが、卑弥呼が活躍した時代はは西暦200年以降です。
  3. 奴隷の有無では、邪馬台国の女王の卑弥呼は奴隷を魏に送りました。一方で神武天皇は奴隷をまったく使っていませんでした。
  4. 入れ墨の有無では、邪馬台国の人は縄文時代にありがちな、男子は年齢を問わず入れ墨をしていました。一方で神武天皇の聖地である日向(宮崎)や、後の大和(奈良)では入れ墨の文化がありませんでした。

以上のことから、天照大御神=卑弥呼の説は正しくなく、邪馬台国と大和王朝はまったく別の国だったと言えるということが言えるのではないでしょうか。

どうでしょうか。この説をご理解していただけましたでしょうか。これは筆者の独自の考え方もありますが、地質学などの科学的な根拠で証明されてきたたことや、昔の中国の後漢書や魏志倭人伝、日本の古事記や日本書紀などの書物を素直に読解すれば判明すると思います。

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【やせたい人はカロリー制限をやめなさい(著者:益江 毅)】のレビュー

やせたい人はカロリー制限をやめなさい

最新の研究と年間5万人のデータでわかった「食べながら痩せるダイエット」がここにあります。
厳しい食事制限を強いるようなダイエット法は結局リバウンドしてしまうので、まったく意味がありません。
ポイントは「我慢せずに食べながら痩せること」です。
こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。
今回は医師であり労働衛生コンサルタントでもある、益江 毅氏が書かれた『やせたい人はカロリー制限をやめなさい』にて、年間5万人の健康指導をする医者が、20年間もの間に実践してこられた「食べながら痩せるダイエット法」について解説させていただきます。

痩せるにはカロリー制限ではなくインスリンを節約すること

ダイエット

カロリー制限だけでは、長期的に痩せることは難しいのです。その理由は、次のようなことがあげられます。

カロリー制限のダイエットをすると

  1. 筋肉が減り、リバウンドしやすい体になってしまう
  2. 食欲を増やすホルモンである「グレリン」の分泌量が増加してしまう

以上のようなことから、カロリー制限を長期間すればするほど、リバウンドしやすい体質になってしまうのです。

ではどうすればいいのかというと、本書で書かれている「炭水化物ーインスリンモデルダイエット」を行うのです。

炭水化物ーインスリンモデルダイエットとは?

鶏ささみ

インスリンが肥満の原因だからインスリンを節約しようというダイエット方法です。

2021年9月の「米国栄養学会」の研究によりますと、肥満のメカニズムに関する理論は次の通りになります。

  • 肥満の本当の理由はカロリーの取りすぎや過食ではない
  • 肥満の発症はインスリンを中心としたホルモンが関与する

このインスリンというホルモンが太る原因だというのです。ではインスリンとはいったいどんな働きをするのでしょうか?

インスリンとは血液中の糖を細胞に取り込ませることによって、血糖値を下げてくれるホルモンです。しかし余ってしまった糖は、筋肉や肝臓にグリコーゲンとして変換されて蓄えられる他、中性脂肪に変換されて体脂肪として蓄えられます。

実際にある研究によりますと、インスリンの分泌量が多ければ多いほどBMIが高くなるということが明らかになっています。

インスリンが過剰に分泌すればするほど太るため、逆にインスリンを節約すると痩せられるという理屈です。

「いやいや、本当にカロリーよりインスリンの方が問題なの?」と思われる方が多いかと思われます。しかし、とある研究でも証明されているのです。

実は被験者322人を対象に、下記のように3つのグループに分けて2年間という長い期間で実験が実施されました。

  • Aグループ:油を控えて腹八分目にする「低脂肪食」
  • Bグループ:カロリーは控えて油を摂る「地中海食」
  • Cグループ:カロリーは無制限に摂って良い「低炭水化物食」

その結果、

  • Aグループ:「低脂肪食」は2.9kgの体重減少
  • Bグループ:「地中海食」は4.4kgの体重減少
  • Cグループ:「低炭水化物食」は4.7kgの体重減少

という結果になりました。つまりAグループやBグループのようなカロリー制限をするよりも、Cグループのカロリー無制限で糖質だけを抑えてインスリンの分泌を抑えた方が痩せられるということです。

簡単に言ってしまえば「カロリー制限」よりも「糖質制限」の方が痩せられるということです。

また、2013年~2015年に行われた研究では

日本基準で肥満(BMI25以上)の男女609人を対象に

  • Aグループ:「低脂肪食」
  • Bグループ:「低炭水化物食」

の2つのグループに分け、どちらのグループも「栄養が豊富で加工が最低限であるヘルシーな食材」を選び、できる限り自炊をしました。

また両方とも「カロリーは気にせずに空腹を感じないように、必要なだけ食べるように」というアドバイスを出しました。

具体的な食事内容は、

  • 「低脂肪食」グループ:玄米・オートミール・赤身肉・低脂肪の乳製品・フルーツ・豆類などを選ぶように指導されました。
  • 「低炭水化物食」グループ:オリーブオイル・サーモン・アボカド・チーズ・野菜・ナッツ類・肉などを選ぶように指導されました。

すると結果は1年後、両グループとも体重が大幅に減少しました。

  • 「低脂肪食」グループ:5.3kg減少
  • 「低炭水化物食」グループ:6.0kg減少

つまり「低炭水化物食」の方がわずかに体重減少の効果は高く、さらに栄養が豊富で加工が最小限の食品を選ぶことによってカロリーは気にせずお腹いっぱい食べても大幅な体重減少ができるってことです。

このようにカロリーは気にせず、インスリンの分泌を抑えるだけでも痩せられるということです。

では具体的にどうすればいいのかを見て行きましょう。

炭水化物ーインスリンモデルダイエットの実践方法

糖質制限

インスリンを節約するために、主食の糖質を少なめにする

(朝昼晩)1食:20~40g
      間食:10g
   1日合計:70~130g

具体的にはご飯をお茶碗に半分ぐらいで糖質約30gですので、1食あたりに食べられる糖質の量は、ご飯をお茶碗に半分ぐらいということになります。

これによってインスリンの分泌を節約できます。とは言ってもおそらく皆さん、「そんな糖質制限、現実的じゃないよ!」と思いますよね。そこで本書では白米を一気に減らせない方向けの方法として、まずは食後の血糖値を上昇させない食べ方から始めることをオススメしています。

具体的には糖質を単体では食べないことです。本誌ではなんと白米より卵かけご飯や炒飯を食べよう!と言っています。これは血糖値の上昇を抑えるためです。いやいや逆にインスリンがいっぱい出そうって思いますよね。

しかしこれは研究でも証明されています。ある日本の研究では、3つのパターンによる血糖値の上りやすさを比較しました。

  • 1つ目「糖質食」:白米180gと食塩少々合計302kcal
  • 2つ目「糖質とタンパク質食」:白米180gと茹でた鶏ささみ240g
    合計602kcal
  • 3つ目「糖質と脂質食」:白米180gマヨネーズ41gプラスきゅうり100g
    合計604kcal

すると結果がなんと、糖質だけを食べた時が一番血糖値の上昇が激しかったのです。

つまり糖質を単体で食べるより、タンパク質や脂質を組み合わせることによって、血糖値の上昇は抑えられる、そしてインスリンの分泌も抑えられるってことです。

ですのでこのように糖質の量を減らせない方は、まずはタンパク質と脂質と組み合わせて血糖値の上昇を抑えて行きましょう。

他にも血糖値の上昇を抑える方法として、

  • 炭水化物を冷やしてレジスタントスターチを増やす。
  • 野菜などの食物繊維やタンパク質・脂質などの食品を先に食べて、炭水化物を最後に食べる。

など本書にはまだまだたくさんのことが書かれていますので、詳しく知りたい方は、ぜひ本書を手に取ってご覧いただくことをオススメいたします。

他にも食事方法以外で血糖値を上げにくくする2つの方法があります。

  1. 食後15分以内に小まめに動く
  2. 毎食30分前に500mlの水を飲む

特に2番の毎食30分前に500mlの水を飲むでは、イギリスのバーミンガム大学の研究で、朝・昼・夜、毎食30分前に500ml合計1.5Lの水を飲むことによって、12週間で平均4.3kgの体重が減少したという結果が医学誌で報告されています。

これは1食だけ食事の30分前に500mlの水を飲んでもダイエット効果は期待できず、1日3回毎食30分前に500mlの水を飲むルールを厳密に守った人だけに効果が見られました。

理由はまだ明確ではないらしいのですが、血液が薄まり食後の血糖値の上昇を抑制したのではないかと推測されています。

ですので厳密にルールを守れる方は、挑戦してみる価値はあるかと思います。

このように血糖値の上昇を抑えることにより、インスリンの分泌を節約し痩せることができますので、ぜひ試してみてください。

まとめ

まとめ

この記事では『やせたい人はカロリー制限をやめなさい』にて、厳しい食事制限ではなく「食べながら痩せるダイエット法」について解説させていただきました。

  1. 痩せるにはカロリー制限ではなくインスリンを節約すること
    カロリー制限では、長期的に痩せることは難しい
    ❶筋肉が減り、リバウンドしやすい体になってしまう
    ❷食欲を増やすホルモンである「グレリン」の分泌量が増加してしまう
  2. 炭水化物ーインスリンモデルダイエットとは?
    血糖値の上昇をお抑え、インスリンの分泌を節約して痩せる方法
  3. 炭水化物ーインスリンモデルダイエットの実践方法
    1日の糖質摂取量を合計で70~130gに抑える
    ❶糖質を単体で食べない
    ❷食後15分以内に小まめに動く
    ❸毎食30分前に500mlの水を飲む

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1ヶ月たったの1,000円以下でフサフサの髪の毛が甦る【最強の育毛粉シャンプー】を作る方法!

育毛のプロが教える髪が増える髪が太くなるすごい方法 表紙

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

筆者はまだハゲているわけではないのですが、子供の頃からおでこが広くて大人の人から「たかぼんは将来ハゲるんとちゃうか?」などとよくからかわれたりしていました。

最近は少し薄毛になってきたようにも感じるので、この本「育毛のプロが教える 髪が増える 髪が太くなる すごい方法(著者:辻 敦哉 先生)」を読んだ時は、目からうろこでした。

というわけで今回は『1ヶ月たったの1,000円以下でフサフサの髪の毛が甦る【最強の育毛粉シャンプー】を作る方法!』について解説させていただきたいと思います。

最強の育毛粉シャンプーを作る方法と使用方法

今回は薄毛でお悩みの方に朗報な内容になっています。

下記が粉シャンプーの材料です。どれもネットなどで簡単に手に入るのでよかったら試してみてください。

  • コーンスターチ 大さじ1または小さじ3(15ml)
  • ハトムギ粉 小さじ1(5ml)
  • 重曹 1つまみ
  • ミネラルウォーター 30ml
  • 100均で売ってるドレッシング容器(キャップがあるもの)1本
  • 100均で売ってるプラスチックのコップ

材料はたったこれだけです。

もし予算がまだあれば、

  • 柿の葉パウダー 小さじ半分(2.5ml)
  • クレソンパウダー 小さじ半分(2.5ml)

などの栄養分も追加すると、さらに頭皮の育毛の効果がパワーアップするようです。

作り方は、

  • ドレッシング容器に材料の粉とミネラルウォーターを入れます。
  • よく混ざるように10回くらい勢いよくシェイクします。
  • 少し粘り気が出てきたら完成です。

粉シャンプーをする時は、毎回粉を混ぜるところから始めてください。もし使い残ったら冷蔵庫で保管して、1週間以内に使い切ってください。

使い方は、

  • 頭頂部から放射状に塗っていきます。
  • そして頭皮全体になじませます。
  • 37~39℃のぬるま湯で洗い流し、流したお湯を洗面器に受け止めます。
  • 洗面器に受け止めたお湯をコップですくい、4~5回繰り返し頭皮と髪を流します。
  • 最後はシャワーでしっかりと粉シャンプーを洗い流したら終了です。

ちなみにコンディショナーはつけなくていいです。頭皮にコンディショナーがつくと毛穴がつまりやすくなるからです。

どうしてもコンディショナーをつけたい場合は、毛先につけて頭皮につかないようにしてください。

そもそも粉シャンプーは安心できるもの?

前項を読まれて、たったこれだけでほんとうに育毛に効果があるのでしょうか?このブログを読まれているあなたには正直そう感じたでしょう。

しかしこの本を一度読まれてみたら、かなり説得させられると思います。筆者もこの本でかなり説得させらました。

実は市販のシャンプー(特に男性用シャンプー)には界面活性剤という成分が含まれていて、それで髪と頭皮を洗ってしまうと頭皮についている皮脂が異常に取れすぎてしまいます。(洗った時は確かにさっぱりする)

すると頭皮から皮脂が取れて頭皮が乾燥しすぎます。すると乾燥から頭皮を守ろうとして、頭皮から異常な皮脂が再び分泌されるのです。

皮脂が分泌されると頭皮がべとべとと脂っこくなるのでまたシャンプーをします。それも指先でゴシゴシとこすって皮脂を取り除くように頭皮を洗うと、頭皮がますます乾燥します。

するとまた頭皮から異常に皮脂が出てくるのでまたシャンプーをするという悪循環が繰り返されるのです。

その結果、頭皮を痛めてしまう原因になっているために、年々薄毛になってしまうというサイクルになります。

この悪循環を防ぐためには、頭皮から皮脂を取り除いた後で、保湿成分が必要になってきます。洗顔をした後で化粧水をつけるのは保湿成分を補っているのです。保湿成分を補わないと鼻を中心に皮脂が出てきます。

頭皮も顔と一緒で保湿成分が必要なのです。しかし頭皮はシャンプーをした後でコンディショナーをつければいいと思っている人がいます。しかしコンディショナーは頭皮の毛穴を詰まらせるので、さらに薄毛を進行させてしまいます。

コンディショナーをつけたい時は、毛先の方だけにして、頭皮にはつけない方がいいのです。

頭皮の保湿は保湿成分が配合されているシャンプーが必要です。

育毛剤をつければいいのでは?と思われる人もいるかもしれませんが、男性用の育毛剤には保湿成分が入っていないので、逆効果です。

もし育毛剤をつけるのであれば、女性用の保湿成分入りの育毛剤にした方がずっといいです。

しかし育毛剤に頼らなくてもシャンプーをするだけで改善できるのが、この最強の育毛粉シャンプーなのです。

その効果を1つ1つ見ていきます。

  • コーンスターチのすごい粒子で、毛穴の奥までキレイにする。
  • 重曹は頑固な皮脂汚れに効く。
  • ハトムギ粉は保湿力抜群。
  • 柿の葉は男性の薄毛に特にオススメ。
  • クレソンは栄養状態に不安な人にオススメ。

これらは、すべて食べても大丈夫なものばかりなので、安心して利用できるものばかりです。なので安心して使ってもらって大丈夫だと、自信を持って言えます。

筆者が今使っているシャンプーはこれ!

ちなみに筆者が今使っているシャンプーは、アミノ酸シャンプーで、保湿力のあるやつです。

商品名は「第一三共ヘルスケア ミノン 薬用ヘアシャンプー 450mL」です。

指先で頭皮をこすると頭皮の皮脂が必要以上になくなることと、頭皮に負担をかけるので、指先でゴシゴシとは洗っていません。

泡を包み込んで、手のひらで押すようにして泡を浸透させて洗っているので、今では頭皮のかゆみはそんなにない状態になってきました。

ちなみにドライヤーを使うと頭皮が乾燥するのでタオルで拭いて自然乾燥にすることをオススメします。

すぐに乾かさないと雑菌が繁殖するのでは?と思われるかも知れませんが、それは寝る時に濡れている場合です。タオルである程度水分を取れば、寝るまでの30~90分程度で乾くはずです。

どうしてもドライヤーを使いたい場合は温風ではなく冷風で、完全に乾かさない程度にして使ってください。

筆者も今使っているシャンプーがなくなれば、次は「最強の育毛粉シャンプー」を自分で作って使ってみようかなと考えています。

もし「最強の育毛粉シャンプー」を使用したら、その感想もブログで紹介してみたいと思います。

まとめ

この記事では『1ヶ月たったの1,000円以下でフサフサの髪の毛が甦る【最強の育毛粉シャンプー】を作る方法!』について解説させていただきました。

筆者が使っている、保湿成分入りのアミノ酸シャンプーもいいのですが、「育毛のプロが教える 髪が増える 髪が太くなる すごい方法(著者:辻 敦哉)」の本の中で紹介されている、「最強の育毛粉シャンプー」は、食べれる材料のみでできているので、安心して使えそうな気がします。

筆者はまずAmazonで下記のコーンスターチと、ハトムギ粉と、重曹を購入しようと思います。


火乃国食品 コーンスターチ 1kg


健康フーズ はとむぎ粉末 350g


AGC製 重曹 1kg

そして最強の育毛粉シャンプーに期待したいと思います。

もっとフサフサの太い髪、できれば最近は白髪が目立ってきたので、白髪も黒くなるように期待したいと思っています。ご期待ください。

最後にこの本の著者を紹介します。


プーラ式ヘッドスパ開発者:辻 敦哉 先生
でした。

最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでもあなたのお役に立てたらうれしいです。
筆者はいつでもあなたを応援しています。
それでは皆様に感謝をこめて終わりたいと思います。
ではまた!

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ブログ作成サービスの正しい選択方法

BLOG

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

ブログを始める時に必ずやらなければならないことが、ブログ作成サービスを選ぶことです。

その時によく言われているのが「無料ブログ」がいいのか「WordPress」がいいのかということです。

というわけで今回は『ブログ作成サービスの選択方法』について解説させていただきたいと思います。

(結論)あなたの目的に応じて決める

ネット上の意見を見てみると、よくWordPressがおすすめという意見が多数出てくるので、何も考えずにWordPressを選んでしまう人が少なくありません。

 

しかしどのサービスを選ぶのかは、あなたの目的に応じて決める必要があります。

 

例えば日記ブログをあなたが始めるとした場合であれば、WordPressではなくて、無料ブログを選ぶべきです。

なぜかと言うとWordPressの場合は検索エンジンからアクセスを集めることが中心なのですが、日記ブログはSEO対策との相性が悪いので、アクセスが集まりにくくなってしまうからです。

 

よく日記ブログは読まれないとちまたでは言われていますが、アメブロであれば、個人が書いた日記ブログを読むことが好きなユーザーが、たくさんいます。

アメブロであれば検索エンジンからアクセスしてもらえなくても、たくさんの人から日記ブログを読んでもらえることができます。

 

アメブロには若い女性のユーザーが多いので、若い女性をターゲットにした記事を書く場合にもおすすめです。

無料ブログにはさまざまなメリットがある

無料ブログには以下のようなメリットがあります。

  • 交流ができる
  • 自動集客ができる
  • 反応が見れる
  • 費用が無料
  • 無料なので当然費用を支払わなくてもブログが消されない

このように無料ブログではWordPressとちがって、ユーザー同士の交流やコミュニケーションによってファンを増やすことも可能です。

 

また記事を書くだけでブログサービスからアクセスを送り込んでくれるので、SEO対策が苦手な方でもブログを読んでもらえます。

 

また「いいね」に相当するボタンがあったりして、読者の声がわかりやすいところもメリットだと言えます。

はてなブログProは有料と無料の両方のメリットがある

ご存知のとおり、はてなブログには無料版と有料版のProがあります。

なぜ筆者がはてなブログProを選択したかというと、それは無料ブログのメリットと有料ブログのメリットの両方が備わっていたからです。

上記で説明した無料ブログのメリット以外にも

  • 株式会社はてなの経営状態が良い
  • 上記によりサービスがなくなるリスクが極めて低い
  • リピーターを作りやすい仕組みがある
  • 独自ドメインが使える
  • カスタマイズの自由度が高め
  • SEO対策にも強め
  • アフィリエイトの利用ができる
  • Google AdSenseの利用もできる

などがあげられます。

 

アメブロは基本的にアフィリエイトが禁止なのですが、はてなブログではアフィリエイトが利用できます。

 

さらに有料版のProだとGoogle AdSenseに認証さえしてもらえれば、記事にAdSenseも貼り付けられます。

 

しかも検索エンジンのSEO対策が強めなので、検索エンジンからのアクセスも集められるのに加えて、はてなブログ側がアクセスを送り込んでもくれます。

 

株式会社はてなは一部上場しているし、経営状態もいいのでブログサービスが停止になる確率は極めて低いです。

万が一のことがあったとしても、その時にはWordPressに乗り換えたらいいだけのことです。

 

たまに「はてなブログは検索上位を取れない。」と言っている人もいますが、決してそんなことはないです。

まとめ

この記事では『ブログ作成サービスの選択方法』について解説させていただきました。

 

WordPressもメリットはたくさんあるのですが、ネット界隈であまりにもWordPressを押す方が多いので、無料ブログやはてなブログProのメリットを中心に書かせていただきました。

 

やはりブログ作成サービスの選択は、最初に言ったとおり、あなたの目的に応じて決めるものだということです。

 

あなたがブログを継続できる自信がなくても、無料ブログであれば何の損失もないので無料で気軽に始められるのではないでしょうか?

 

ブログをビジネスとして考えるのであれば、途中から有料に切り替えるのではなく、最初から有料のブログを作ることをおすすめします。

最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでもあなたのお役に立てたらうれしいです。
筆者はいつでもあなたを応援しています。
それでは皆様に感謝をこめて終わりたいと思います。
ではまた!

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ブログを挫折する人のほんとうの理由とは?【ブログを継続する秘訣】

挫折

こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。

ブログを始めた人の中で、途中で挫折しないでブログを継続し続けている人の確立ってどんな感じになっているのでしょうか?

  • 1年以上30%
  • 2年以上10%
  • 3年以上3%

こう見てみると、3年以上継続してブログを書き続けている人はたったの3%しかいないのです。

残りの97%の人がなぜブログを途中で挫折したのでしょうか?

稼げないから?いえ違います。

というわけで今回は『ブログを挫折する人のほんとうの理由とは?』について解説させていただきたいと思います。

(結論)将来的に稼げると思っていないから

結論

ブログを挫折する人は、稼げないから挫折するのでしょうか?それは違います。

実はブログを挫折する人は、このままブログを継続していても、将来ほんとうに稼げるようになるのかが確信できないから挫折してしまうのです。

しかしブログの継続をあきらめてしまったら、当たり前のことなのですが、ブログからの収入を得ることはできません。

ブログを挫折する人は、収入がない、または収入が少ないので、いつまでもこのままブログを継続していても稼げないのではないかというネガティブな気持ちに左右されているのです。

今現在の収入ではなく、将来的に収入が期待できないと思ってしまうと誰でも挫折してしまいますよね。

もし将来的に稼げることがわかっていたら

100万円

例えば今現在はブログの記事をいくら書いたとしても、収入が0円だったとします。

しかしあなたが3年間ブログを書き続けたら、3年後には毎月100万円の収入を約束されたらどうしますか?

絶対に3年以上継続しますよね。そして毎月100万円の収入をもらっていると思います。

今まったく収入がなくても、ブログを継続しているだけで3年後から毎月100万円が入ってくることがわかっていたら、今の成果はどうでもいいからです。

しかし現実にはそんな決め事は絶対に存在しません。なので将来的に稼げることを確信できない人が、ブログを挫折してしまうのです。

ブログを継続する秘訣

ゴール

自分の未来の成功に確信を持てなくなった時に、人はあきらめてしまいます。

それではブログをあきらめずに継続していくにはどのようにすればいいのでしょうか?

その答えは、もっと長期的視点を持つことが大切になってきます。

目先の収益だけで判断してしまうと、長期的な成功を逃してしまう恐れがあります。

あの有名なインフルエンサーのマナブさんやイケハヤさんでも、最初は初心者だったのです。

もしそんな人たちが初心者の時に途中であきらめていたとしたら、今のマナブさんやイケハヤさんの存在はなかったのです。

ブログを継続する秘訣は、未来の自分の成功を信じ続けることです。

それができなくなってしまえば、人は挫折してしまうのです。

まとめ

まとめ

この記事では『ブログを挫折する人のほんとうの理由とは?』について解説させていただきました。

ブログを挫折する人のほんとうの理由は、未来の自分自身の成功を確信していないからです。

ブログを挫折しないで継続する方法は、目先の収益だけで判断せずに、長期的視点を持って自分自身の成功を確信し続けることです。

最後までお読みいただきありがとうございました。
少しでもあなたのお役に立てたらうれしいです。
筆者はいつでもあなたを応援しています。
それでは皆様に感謝をこめて終わりたいと思います。
ではまた!

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